「超越」と「己れを超越する意識」の関係

「自己以外のものは、一切発遣である。自己以外のものは自己の根元を自覚せしめるための発遣であるから、それに即して本来の自己は招喚である。二尊は二人の人物という限定を表すものではない。人でなく、法である。」(『安田理深選集』第11巻p53)
 この「自己以外のものは、一切発遣である」という表現は、善導の二河譬喩からの触発だろう。釈迦は、自らは此岸(この世)に立ち、彼岸(浄土)を指さして、行者に往けと命じる。これを「発遣」と善導は言う。一方の弥陀は、彼岸にいて、行者に「私はお前を必ず護るから、彼岸に通じる白道を歩いて来い」と呼びかける。これを「招喚」と善導は言う。
 これは信仰を譬喩で表現したものだから、「釈迦」と「弥陀」を人物のように描いている。しかし、これは安田先生が言うように、「二尊は二人の人物という限定を表すものではない。」のだ。「釈迦」という言葉で暗示されている意味は、「自己以外のものは、一切発遣である」という安田先生の受け取りそのものである。
 この「一切のもの」とは、自己が対面するあらゆる事柄を指す。自己がこの世と対面するための感覚器官は五官以外にはない。仏教は、それを「六根」と呼んだ。「眼・耳・鼻・舌・身・意」という器官のことだ。この「六根」で感じられた世界を、「六境」と言う。「色・声・香・味・触・法」のことだ。現代語で言えば、「環境」だ。サルトルも言うように「一切の意識は何ものかの意識である」(『想像力の問題』)だ。だから「たとえば、一本の樹木の想像的意識は、樹木、すなわち本来意識の外部にある、一物体を思念する。意識は己れ自身を出て、己れを超越する。」と言っている。この「己れを超越する」という独特の表現がグッとくるところではないか。あたかも、向こうにあるように実感できるのだが、それは「己れを超越」した「意識」のことだと、サルトルは言う。
 まあ、丸山圭三郎の言葉で言えば、「言語の存在喚起機能」のことだろう。
自己の外部に、つまり「環境」にあるものが、あたかも「客観的」に存在するかのように感じられるのは、「己れを超越」した意識の創造である。それは何も意識が捏造したものであって、意識を消せばなくなるということではない。我々にとって、「環境」は、まさに、「客観的にあると実感されるように在る」のだ。だから、物にぶつかれば痛いし、お腹が減れば、食物を食べなければ生きられない。これは「幻想」ではない。つまり、「客観的」に実感される「意味」として在るのだ。まあ、唯識は、それを「識」という一語で表現してきた。
 曾ては存在していた連れ合いが、いまは存在しない。これは「客観的」なことだ。しかし、「曾ては存在していた」ということも、「意味」として、〈いま〉ここにあるだけだ。「諸行無常」は真理なので、これを超えることはできない。私の家族は、昼間、寺にやって来て、夜は自宅へ帰っていく。だから、いま、私の目の前に家族はいない。ただ家族の顔を思い出すことはできる。それは「記憶」と呼ばれる「意味」としていまある。
 でも、私の連れ合いにしても、家族にしても、「いま、ここにいない」という点では同じである。この世は「諸行無常」だから、家族であっても、また再び会えるかどうかは分からない。たとえば、海外に引っ越してしまえば、会えない時間が長くなる。つまり、目の前にはいない。「いない」という意味では同じでも、二度と会えないということと、また再び会えるということはどこが違うのだろうか。
 それはサルトルの言う「己れを超越」した「意識」が異なるのだろう。つまり「再び会える家族」という「意識」と、「二度と会えない妻」という「意識」の違いだけである。両者ともに、「現在は不在」であるという点は同じだ。それは「意識」の違いだけの差異であるから、大した違いではない。
 安田先生の言う、「自己以外のものは自己の根元を自覚せしめるための発遣」という視点を入れ込んでみれば、それらはすべて「存在=意識」であると自覚させるということではないか。「自己の根元」とは、縁起的存在であり、関係性で仮に成り立っている関係そのもののことだ。だから、これを「意識」はすべてを拾い上げて意識化することはできない。自己の存在は、まさに関係存在だから、身体も環境も、あらゆることが複雑に絡み合って成り立っている。これが「自己の根元」ではないか。
 これを自覚させるためには、「自己以外のもの」が必要なのだが、「自己以外のもの」と「自己」とをどのように分けることができるだろうか。事実はコトなので、それを分けることができない。モノは分割できても、コトは分けられない。
 実は、この安田先生の文章を読んだとき、まど・みちおさんの「けしき」を思い出した。
けしきは
目から はなれている
はなれているから
見えて
見えているから
けしきは そこに ある
あの雲の下に つらなる
山々の けしき
Sの字をかいて 海へとはしる
川の けしき
けしきの うつくしさは
ひかるようだ
よんでいるようだ
いたいようだ
見るものから
いつも
はなれていなければならないからだ…
自分が そこに
ほんとうにたしかに あるために…  (『まど・みちお全詩集』)
 サルトルのいう「己を超越する意識」は、けしきを「ひかるようだ よんでいるようだ いたいようだ」と受け取る。「ひかるようだ」は理解できそうだ。また「よんでいるようだ」も、安田先生の「本来の自己は招喚である」と重なって受け取れる。「本来の自己」とは、まどさんのいう「けしき」と同質のことを述べている。しかし、「いたいようだ」がどこから出てくるのか。そのわけは「見るものから いつも はなれていなければならないから」だと言う。「己を超越する意識」のところでは、「ひかるよう」に感じ、あたかもけしきの美しさを向こうにあるように感じてしまう。けしきは、美しさを感じる者と一つになりたいのだが、それを「己れを超越する意識」は、あたかも向こうにあるように感じてしまう。それは、けしきにとって、「痛み」だとまどさんは言う。けしきは美しさをもってお前と一体化したいのに、お前は私を拒絶し、あたかも向こうにあるもののように押しやってしまう。それはけしきにとって「痛み」なのだ。
 でも、それは仕方のないことなのだ。なぜなら、「見るものから いつも はなれていなければならないからだ…」と。これはまどさんが、けしきとなり、そこから表現しているのだろう。「私(けしき)は私を見る者と一体になりたいのだ。でもあえて離れていよう、離れていなければならないのだ」と。なぜならば、「自分が そこに ほんとうにたしかに あるために…」だからだ。
 この「自分」とは、けしき自身のことでもあり、また「己れを超越する意識」のようでもある。牽強付会だが、ここに「機法の峻別」が語られているように思う。
「けしき」とは、「法(境)」であり、「己れを超越する意識」は「機(自己)」である。この美しい「けしき(法)」は、「機(自己)」と一つになろうとする。「けしき」は「機(自己)」を摂取しようとはたらく。しかし、「機(自己)」は、それを拒絶する。拒絶することによって、「自分が そこに ほんとうにたしかに ある」ことが確保される。「けしき(法)」は「法」として、「己れを超越する意識」は「機」としての場所が確立する。
 でも、「けしき」を美しいと感じることは、自分自身のところで起っている。おそらく、自分自身が、そこにいなければ、どれほど美しい「けしき」であっても、それは美しいことにはならない。そこに「けしき」の美しさに圧倒され、蹂躙され、酔いしれている自分自身がある。これは親鸞の信仰分析だと、「第二十願」の状態である。
 それを、あえて「痛み」として「けしき」は感じる。なぜならば美しさを感じている自分自身とは、決して一つになれないからだ。苦悩の衆生を摂取して「仏凡一体」になりたいのが「けしき(法)」の願いそのものだ。しかし、そうはなれない。またなってはいけないのだ。それは、「自分が そこに ほんとうにたしかに あるため」だからだ。「機法」の分限を決して超えてはならないからだ。
「けしき」とは、あたかも向こうにあるからまだ分かりやすいが、これは安田先生の言う「本来の自己」と同質のものである。「己れを超越する意識」にとって、「本来の自己」とは「けしき」と同じように、向こうにあるものなのだ。つまり、自然だ。山々のけしきは自然そのものだ。そして、人間にとって、もっとも近い自然が、自己の身体である。身体は自分であるように見えて、自分を超えている。髪の毛一本でも、自分の思うように造ることができない。自分の意志で動かせるから、あたかも自分の「所有物」のように錯覚しているが、それはとんでもない。「けしき」が遠くにあるように、「本来の自己」は、永遠の遠さをもって、自己に密着し、同伴してくれているだけだ。
「けしき」が呼びかけているように、「本来の自己」は呼んでいるのだ。私は決してお前のものではない、と。「本来の自己」とは、「己れを超越する意識」にとって、永遠に不可知なのだ。不可知であるにも関わらず、既知にし、分かったとこにしていることの傲慢さを批判する。それが「招喚」だ。
 本来一つであったものが、二つに分裂する。そもそも「他力」以外にはないのだ。だから、自分と言っても、その不可知から誕生してきたのだ。自分は「他力」で、この世に生み出された。だから、「他力」そのもの、如來そのものである。しかし、それだけであれば、「他力」ですべては完結してしまう。完結とは、凝固し固まり動きがなくなる。人間は「完結」を欲するのだが、「完結」に満足するものでもない。もし人間が救われてしまったなら、それで完結し凝固してしまう。この凝固に揺さぶりを掛け、流動化しようと「他力」自身が動き出す。「念仏もうしそうらえども」(『歎異抄』第九条)と唯円に吐露させたものが、それだ。
 本来一つであったものが、あえて二つに分裂し、分裂を通して、初めて一つであったことを思い出させる。こんな装置が「南無阿弥陀仏」という言葉で、伝承されてきたのか。