〈真実〉の含有量を量る眼

 連れ合いの旅立ちを契機にして、前を向いていた人生の方向性が逆転し、帰り道の風光に変わった。これは何度も言っているように、生から死を見るのではなく、死のほうから生を見る景色に変わったということだ。まあ、こんなことはあり得ないし、矛盾していることは重々承知で言っている。死んでもいないのに、死のほうから生を見るなどと言うことは成り立たない。成り立たないのだが、そう言ってみたいし、それは間違いのないことだという実感が生まれて来た。
 背水の陣という言葉があるが、背中には既に「死」が張り付いている。つねに、背水の陣だ。こうなってくると、〈真実〉と格闘し、〈真実〉をできる限り、この世に刻みつけておきたいという衝動が湧いてきた。
 どれだけ言葉を尽くそうと、どれだけ表現を尽くしても、それは決して言語化できない。もともと「不可称、不可説、不可思議」なのだから。だからといって言語化をやめるという方向にはいかない。言語化できないのだが、言語化できないからこそ、逆に、つねに言語化を欲しているものがある。また言語化することが愉しみでもある。これが天親の言う「愛楽仏法味(仏法の味を愛楽す)『浄土論』」なのかも知れない。
 もはや、何ものにも頼ったり寄りかかることができない。まさに『臨済録』が、「逢著便殺。逢佛殺佛、逢祖殺祖、逢羅漢殺羅漢、逢父母殺父母(逢著すれば便ち殺せ。仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し、羅漢に逢うては羅漢を殺し、父母に逢うては父母を殺し)」と述べたような出来事だ。何だか物騒なことを言っているようだが、何ものにも依存するなということだ。それをあえて「殺す」という言葉で厳しく言うのが詩人・臨済さんだ。聖なるものにも、そして自分にも頼らないという潔さが溢れている。
 イエスも似たようなことを言っている。
「私が来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではかく、剣をもたらすために来たのだ。私は敵対させるために来たからである。
 人をその父に、娘を母に、嫁をしゅうとめに。こうして、家族の者が敵となる。私よりも父や母を愛する者は、私にふさわしくない。私よりも息子や娘を愛する者も、私にふさわしくない。また、自分の十字架を取って私に従わない者は、私にふさわしくない。自分の命を得る者は、それを失い、私のために命を失う者は、それを得るのである。」(マタイ書10-34・39)
 これは、「私(イエス)」を頼りとする者には、そこに必ず争いが生まれると予言しているのだろう。それをあえて、自分がここに来た理由は、他者と敵対させるためだと言っている。そもそも愛とはエゴイズムだから、すべてが「身びいき」だ。「身びいき」の者に向かって、「私(イエス)」を頼れと迫るのだから、それは争いがうまれるのは当然だ。エゴイズムの愛着を引き裂くように立ち現れるが「私(イエス)」だ。波風の立たないことが幸せなことではなく、あえて波風を立てることによって、何を本当に大切にしているのかを炙り出そうとする。これはイエス一流のパフォーマンスである。
 まあ、でも、ここで、「私」と言っているところが、未成熟なところだ。未成熟というと叱られそうだ。果たして、イエスの言う「私」とは、イエス自身のことなのかどうかは未知数だからだ。しかし、浄土教は、「二尊教」なので、決して、「私」とは言わない。「仏」とか、「阿弥陀」とか、「浄土」などの、自分以外を指す言葉で、それを表現する。まあイエスも三十歳前後だから、そのくらいの勇み足は許されてしかるべきか。
 問題は、「成熟した一神教」たりえるには、どういう表現が望まれるかということだけである。つまり、私の関心は、その表現に含まれている〈真実〉の含有量である。
 浄土教は、仏教界の一神教である。これは極度の唯一性を要求する。これだけが唯一であり、他のものを唯一と並べることをしない。親鸞の言葉で言えば、「『唯』は、ただこのことひとつという。ふたつならぶことをきらうことばなり。また『唯』は、ひとりというこころなり。」(『唯信鈔文意』)である。二つ並んでしまったら、それは唯一ではない。相対性であり、絶対性ではない。
 それを以前、『救済詩抄 第2巻』で、私は、「真宗以外に宗教なしは 正しい信心 真宗以外は間違いは 排外主義」と法語化してみた。この表現が含んでいる〈真実〉の含有量はかなりなものだろう。自分に「唯一絶対」が開かれれば、他のものとぶつかならい。相対性を超えたことが絶対だからだ。この「唯一絶対」とは、視座のことであり、「唯一絶対」の眼をもらうことである。緑のサングラスを掛ければ、この世全体が緑化するのと同じだ。サングラスという例えは、あまりよくないかも知れない。ある一つの価値観で、つまり、偏見を「サングラス」と例えることが多いから。それなので、私はあえて矛盾を承知で、「透明なサングラス」と言ってみたこともある。
 この「透明なサングラス」をもらえば、あらゆる事物が、このサングラスの景色として包摂されぶつかることがない。景色は、それがそのようにあり、決して互いに喧嘩し合うこともなく、静かに調和しているではないか。ぶつかり合うのは、自分に「絶対」という「思い」が凝固してくるときだけだ。「思い」は、必ず相対化する。相対化しなければ、「思い」は「思い」としてはたらくことができないからだ。つまり、「思い」とは差異化である。あれとこれの違いを知ること。それが「思い」のはたらきである。
 まあ我々は「思い」で煩わされるのだが、その「思い」以前へ帰れば、そこは静寂な景色として調和しているからぶつかり合うことがない。「思い」は自力、「事実」は他力といういことだ。
 この「唯一絶対」のスコープを得れば、イエスも〈真・宗〉内部の妙好人としていただき直すことができるからぶつからない。そもそも、イエスは、「イエスキリスト教徒」ではない。ただ、〈真実〉を何とか、この世に表現しようとした「真実教徒」だ。だから、表現に苦心して、さまざまな表現を採る。その表現の内部にどれだけ〈真実〉が含有されているか。その〈真実〉の鉱脈を見出す眼こそ〈真・宗〉である。
 人間はとことんに行けば、損得だけでは満足しないものだ。やはり、〈真実〉がほしい生き物だ。この〈真実〉だけが、人間を根底的に説得するのである。
 孔子が、「朝に道を聞けば、夕べに死すとも可なり」(『論語』)と言ったのも、〈真・宗〉内部のこととして理解することができる。まあ、この「道」をどのように受け止めるかは、各人にまかされている。まさに「面々の御はからい」(『歎異抄』第二条)こそが、「如是我聞」の〈真・宗〉道なのだ。この世に、生々しく「生きている」のは、〈唯一人〉でしかないからだ。