「対面」が生む真の無力者

「対面」ということを述べたが、私が対面しているのは、してきたのは、これからするのも阿弥陀さんだけだ。他にもたくさんの人たちが、この世にはいる。そのひとたちとは、対面していないのか。そう問うてみると、本質的には対面していないのだろう。
 教室に例えれば、こうなる。教室にはたくさんの机が並んでいる。人々もその机に各々座っている。私はどこに座っているのかと言えば、教室の最後尾だ。そこから前を見ればどうなるか。黒板の前には、一人の先生が立っていて、我々のほうを向いているだけ。つまり、私が対面しているのは、先生一人である。他の人々の顔は見えない。見えているのは、彼らの後ろ姿だけだ。つまり、彼らと私は対面することがない。
 その先生とは阿弥陀さんの譬喩である。もちろん娑婆では、他の人々と対面することもある。人間は「自我の遠近法」を持っているので、親しい人間とそうでない人間とを位置づけ配置している。身内と身外だ。私も、連れ合いとは四十八年間の人間関係を持っていた。だから、ずいぶん対面してきたように思うのだが、顔が思い出せないのだ。確かに写真があるから、写真を見たときには、「ああ、こんな顔だったなあ」と思い出すことはできる。しかし、写真を見ていない、その他の大部分の時間には、彼女の顔を思い出そうとしても、正確には思い出せない。
 これほど親しく、長い間、対面してきたように思えるのだが、何故だか思い出せない。これは不思議なことだ。写真を見れば、その瞬間には思い出せるのだが、写真を見ていない時間、つまり、日常の大部分の時間には思い出すこともない。対面してきたようなのだが、対面してはいなかったようだ。
 ひとは、他者の後ろ姿しか見えないのかも知れない。どれほど娑婆で対面してきたように思えても、それは幻なのだろう。だって、私は教室の一番後ろに座っているのだから。人々の後ろ姿しか見えない。やっぱり、私が対面してきたのは、たった一人の先生。それは阿弥陀さんだけなのだ。
 でも、厳密に言えば、そのたった一人の先生の顔が見えるのかと言えば、これも見ることはできない。見えたと思ったら、それは幻想だ。対面しているのだが、顔は見えない。 そこでもう一回、向き直さなければならないのだろう。もう一回向き直すとは、阿弥陀さんに背を向けるということだ。阿弥陀さんと対面しようとしたら、強烈なひかりで眼を焼き潰される。逆光はまぶしくて、目を開けてはいられない。そこで、そのひかりに背を向ける。するとどうだろう。背中からひかりを浴びることができる。温もりすら感じる。そして、そこは見渡す限り、阿弥陀さんのひかりによって照らし出された世界に変わる。
 阿弥陀さんとは背中で対面するのか。これが本願の第十八願文に「唯除」という文字が付いていることの奥義である。阿弥陀さんは、あらゆる苦悩する者を救うと誓いを建てている。しかし、その誓いから漏れるものがあるという。それを「唯除く」と記す。
 当初、自分は除かれていないのだろうと、甘い期待をもって近づく。しかし、よくよく近づいてみると、除かれているのはお前一人だと知らされる。そもそも阿弥陀さんなど必要とはしていないのだから、有っても無くてもよいものだ。阿弥陀さんに近づこうと一歩でも、その場所を動いたらダメなのだ。動こうとするのは、自分の力を頼りとすることになるから。それは阿弥陀さんに全託した姿ではない。
 動こうとした、その瞬間に、阿弥陀さんの誓いから除かれてしまう。「お前は、私を信じてはいない。お前自身の足を信じているだけじゃないか。そんなものは、救いの誓いの中に入れるわけにはいかない。私が救いを誓っているのは、真の無力者のみだ」と。この「唯除」の鉄槌が下されることで、誓いの外に排除された者が生まれる。
 これが私の座るべき場所である。だが、それで終わりにはならない。そこから、阿弥陀さんは、「唯除」の場に立った者のみに、「唯救」の悲愛を浴びせてくる。人間は、「救われない者」か「救われた者」かのどちらかの場に座り続けたいのだ。それをひっくり返すかのように、最期のメッセージを届ける。これを親鸞は、「果遂の誓い、良に由あるかな。(果遂之誓良有由哉)」と感動的に受け止めたのだろうか。「果たし遂げなければ、ならない」というメッセージは、結論を握り、その場に居座ろうとする私を解体し続ける力なのだ。結論を握ろうとする私を宙づりにし、安住の地を与えないという御利益を与えるために。