今朝も、お朝事をお勤めした。そのとき改めて思った、自分は阿弥陀さんとだけ対面して「生きている」のだと。生まれる前から、そしていまも、これからも、常に阿弥陀さんとだけ対面してきたのだと。この対面形式が、私のすべてだと思った。
以前も本堂のお花の向きが変だと、問題提起をした。ご本尊の阿弥陀さんをお荘りするのであれば、阿弥陀さんのほうに、お花の美しいほうを向けて生けるべきだと。しかし、実際には、人間の、つまり参詣者側に美しいほうを向け、阿弥陀さんには裏のほうを向けて生けている。これは阿弥陀さんへの冒涜ではないかと。
しかし、阿弥陀さんのほうに向けないのが正しい荘り方だ。なぜなら、これは阿弥陀さんを莊るために生けているわけではないからだ。これは、大雑把に言えば、参詣者のために生けているのだ。そもそも、「現実」はそうなっているではないか。お花が枯れかけてきたら、いつ新しいのと交換するだろうか。それは、参詣の多い行事や法事の前に決まっている。誰も参詣が来なければ、枯れたままでも気にならない。阿弥陀さんのために莊っているのであれば、常に美しいお花をお莊りするべきだが、「現実」はそうならない。厳しいようだが、阿弥陀さんは二の次で、参詣者、つまり、人間が第一なのだ。
これは、蛇足だが、お墓のお花も、そういう莊り方になっているようだ。お盆やお彼岸のとき、お墓には美しい花々が莊られる。皆さん、新鮮で、美しいお花を購入し、美しい時期にお墓へお供えする。そして、気持ちよくお参りしてお帰りになる。しかし、少し経ってくると、お花は萎れ枯れてくる。一週間以上そのままにしておくと、枯れたお花ばかりのみすぼらしい光景が広がる。しかし、参詣者はそんな光景を見ることはない。自分がお参りするときさえ美しければ、それでいいからだ。こうなってくると、故人のためのお莊りなのか、自分が気持ちよくお参りするためのお莊りなのかが分からなくなる。
まあ、それは「娑婆事」なので、お参りしたお花は持ち帰りましょうとか、数日後にはお花を撤去しましょうとか、あれこれ面倒なことで事を済まそうとする。しかし、本質的な問題は、そこにはない。
話を戻そう。大雑把に言えば、本堂のお花は、参詣者のほうへ向けて生けるのが正しい生け方なのだ。突き詰めて言えば、その参詣者とは、私一人であり、この〈唯一人〉のために美しいほうをこちらに向けて生けるのだ。私が、阿弥陀さんによってこの世に生まれさせられたことを思い出させるために。一見すると、阿弥陀さんを美しくお莊りしているように見えてしまうのだが、その美しさがどこにあるのかと言えば、阿弥陀さんと私の間である。もっと言えば、私の中にしか、その美しさは感じ取れない。
それは、この世に「生きている」のはあなた一人しかいないからであり、それを思い出させるためなのだ。もっと正確に言えば、この世を一人称で「生きている」と言えるのは私以外にはない。私から見ると、目の前にはたくさんの人々が「生きている」ように見える。それは間違いないことだ。だから、たくさんの人々も「生きている」のだが、厳密に言えば、それは間違いだ。厳密に言えば、私にはたくさんの人々が「生きている」ように見え、「生きている」ように感じ取れると言わねばならない。
なぜそんなことに目くじらを立てるのかと言えば、この世に、「生きている」のは〈唯一人〉としてのあなた以外にはないからであり、これが至宝だからだ。でも、私以外に「生きて」いるひとはいないと断言すると、何だか、独善主義のように受け取られてしまうから困る。事実は、そういうことなのだが、なかなか人間は、これを受け取れない。
だから、それを補うようにして、この〈唯一人〉とは、〈一人一世界〉のことだと言い訳している。動物学者ユクスキュルの言葉である「環世界」を傍証としながら。ここに一個の生き物が居れば、それはその一個の生き物の世界である。決して、一つの大きな風呂敷のような世界があって、その中にいろいろな生き物がはめ込まれているわけではない。風呂敷のたとえを援用すれば、一個の生き物には、その生き物独自の世界という一つの風呂敷が与えられているということだ。一個の生き物にはひとつの風呂敷が与えられ、隣にいる生き物の風呂敷とぶつかることはない。それは透明な風呂敷だから、お互いに包摂し合う。
これは生き物が生きることの現実的事実である。この「いま・ここ・私」をどのように受け取るかということだけが、根源的問題なのだ。
本堂で、大勢の人々と法要をする。見渡せば、周りには大勢の人々がいるのだが、前を見れば阿弥陀さんと私だけの空間が感じ取れる。私と阿弥陀さんだけが対面している。30人のひとがいれば、30の世界が、そこにある。この対面形式が、「いま・ここ・私」を規定することになる。
阿弥陀さん、阿弥陀さんと何度も表現するのだが、阿弥陀さんには人格的な残滓を感じない。いかにも人格的に、「さん」付けで呼ぶので、人間的なイメージを持っているのかと言えば、そんなものはない。それで私は、阿弥陀さんを「脱人格性」などと呼んでいる。人間的な表現を採るのだが、それは「脱人格性」を本質とした表現なのだ。
だから、『聖書』の神のような、人間的な残滓がない。旧約の神は人間臭いが、新約の神はそうではないと言われそうだ。でも、ちょっと、イエスの言い方も危ういところがある。イエスは「隣人を愛せ」と言った後に、「あなたがたは、天の父が完全であられるように、完全な者となりなさい」(マタイ書5-48)と言っている。親鸞は、「あなたがたは、阿弥陀さんが完全であられるように、完全な者となりなさい」などとは、絶対に言わない。もし、そんなことを言ったら、人間は誰一人として、「完全な者」にはなれず、うなだれるしかないだろう。安田理深先生は、「人間が本願を担げば、肩が砕ける」というような表現をされていた。
阿弥陀さんは、ご自身に誓った「誓願」を本質としているから、人間とは次元を異にしてしている。「誓願」など人間に理解できるようなものではない。それは「永遠」であり、「無条件の悲愛」だからだ。こんなものをいくら人間が考えても、決して理解することはできない。
だから、「ただほれぼれと弥陀の御恩の深重なること、つねはおもいいだしまいらすべし。」(『歎異抄』第16条)となる。「ただほれぼれと」という感慨は、「われらが、身の罪悪のふかきほどをもしらず、如来の御恩のたかきことをもしらず」(後序)という認識から生まれる。丸ごと阿弥陀さんなどのことは知らないのだ。
この「知らない」が絶望ではなく、救いなのだ。「知らない」から語るのをやめるということにはならない。「知らない」から、いくらでも阿弥陀さんのことについて語れるのだ。それは、指一本として阿弥陀さんに触れ得ないから語れるのだ。もし指一本でも触れていたら、それは恐ろしいことになる。
親鸞が「仏意惻り難し」(『教行信証』信巻)と述べた後、「然りといえども竊かにこの心を推するに」と語り出したのには、そういう理由があったのだ。阿弥陀さんのこころなど「知らない」と。それでも、「知らない」阿弥陀さんのこころを推し量ってみると、と言って、そこから無限の表現が生まれたようなものだ。
こうなってくると、対面するものなくして対面しているのだ。「南無阿弥陀仏」とは、そういう意味だ。「南無」は自己、「阿弥陀仏」は阿弥陀さん。この「南無」と「阿弥陀仏」との接地面が、対面という意味だ。対面するものなくして、「対面する」と言わしめるもの。これが〈真・宗〉の実働なのだろう。
「対面」がやってくると、この世のあらゆる事物や現象が、「自分」というものを教えてくれる教材に変化する。この世界そのものが「自分」であったと、改めて教えられる。これが「対面」の御利益なのだ。