美輪の初七日が済み、もう三七日になろうとしている。彼女と過ごした四十八年間は、まさに夢幻の如きものとしてある。「ある」を「あった」として受け止めると、「ある」は過去の出来事になる。
「ある」には限りがある。生物としての人間の生存年数は、約百年だ。二百歳の人間はまだ存在しないだろう。『聖書』には、何百歳という表記が出てくるが、あれは文学的表現だと思われる。もしたとえ何百歳だったとしても、やはり、「ある」には限界がある。
ということは、「ない」、あるいは「なかった」ことのほうが圧倒的だ。「なかった」時間のほうが、「ある」よりも長く、「なかった」時間を「故郷」として感じている自分がいる。「ない」から生まれ、限りある「ある」になり、やがて「ない」に帰って行く。こんなファンタジーがあってもよい。
「ない」は「ある」を否定する「ない」ではない。否定感で受け取ると、「ない」は、「ある」にとって恐怖だ。それは生の軸足が「ある」に置かれているからだ。本来、「ある」は限定的であり、「ない」が永遠ならば、「ない」を「故郷」というファンタジーで受け取れる。「本来」を「ある」に置くか、「ない」に置くか、だ。
三七日を迎えるいま、私にとって「ない」が「故郷」であり、圧倒的な力で隣接してきた。世俗化した言い方にすれば、「いま」が、すぐお迎えの来る「いま」へと地続きになった。
いままでは、「ある」に軸足があったが、いまは「ない」に軸足が移った感じだ。「ない」に軸足をもって、幻の如き「ある」を「生きる」。
どこまで行っても、ほんとうのことなど人間には知らされていないのだ。また、ほんとうのことなど知らなくてもよいことなのだ。限定的であり、微かなことだけの世界を賜っていけばよいのだ。
『歎異抄』(後序)も、「如来の御こころによしとおぼしめすほどにしりとおしたらばこそ、よきをしりたるにてもあらめ、如来のあしとおぼしめすほどにしりとおしたらばこそ、あしさをしりたるにてもあらめど」と言っているではないか。
「如来の御こころ」とは、絶対基準である。この絶対基準に比べてみれば、人間は、どこまでも相対基準しか知らない。知らないのに、それが絶対であるかの如くに、傲慢にも錯覚しているではないか、という批判が裏打ちされている。
「如来の御こころ」は批判するのだ。人間は、ほんとうの「死」を知らない。知らないのに、それがあたかも「ほんとうの死」だと思い込んでいる。それは如来の眼を盗んでいることなのだと。
この批判に遇うたびに、「ない」ことがほんとうだという温もりを感じる。「ある」の隣には、たちまち「ない」が隣接している。「ない」の温もりを感じつつ、「ある」を「生きる」。