〈真・宗〉の目指す人間像とは、「訳の分からない者」であると、改めて昨日の教学館のお話で実感した。仏に成る、いわゆる「成仏」の仏とは、「訳の分からない者」である。
どうも人間は、「訳の分かるひと」を目指してしまう。「訳の分かるひと」とは、自我というものに様々な装飾品をくっつけたひとだ。
まあ、自己とか、自己身体というものは、もともと無いのに。自己とか、自己身体とは、複雑な関係性で、微かに成り立っているものだ。ちょうど、河合隼雄先生が語った「中空構造」である。中空構造とは、たとえれば、ドーナッツのようなものだ。ドーナッツは輪っかであり、真ん中が空洞になっている。これがちょうど、自己像と重なる。ドーナッツの部分は、さまざまな装飾品で出来上がっている。装飾品とは、自己が知っている、つまり、「訳の分かっている」自分の情報だ。
誕生日とか、名前、体重、正確、性別、能力、住所、電話番号、年齢、学歴、職業、年収、持病、家族、民族等の、自己情報である。これらの情報を装飾品として、自己というイメージを作り上げている。
教学館の名物は、毎月行われる「自己紹介タイム」だ。「自己紹介」とは、普通、初回の研修会のみでするもので、それを毎月、毎回するというのは、とても異様なことだ。しかし、教学館ではそれをする。なぜなら自己というものは、一瞬一瞬変化しているものであり、先月の自己とは、当然、違っているからだ。初回は、まだ自分が語るべき自己情報が、聴衆にとっては新鮮な情報だから、話者も聞き手も、ドキドキ感がある。しかし、毎月となると、なかなか話す情報が尽きてきて苦しくなる。そうなると、予めこんなことを話の種にしようと企むことになる。日々の生活の中で、「ああ、これを次回の自己紹介で話そう」とエピソード化する。これも面白いことだ。
エピソード化とは、「物語化」である。ひとは、自他共に、そこに「物語」が語られなければ満足しない生き物だ。まあそれはそれとして、どれほど自己情報について語られても、それで自己全体を語ったことにはならない。つねに、自己紹介とは、自己の一部分の情報でしかない。それらの情報をドーナッツとして身にまとわせ、自己というものがあるかのように思っている。しかし、それは幻想なのだ。つまり、ドーナッツの真ん中の自己そのものとは、「中空構造」になっているのだ。これは〈真実〉ではないか。
だから、自己そのものとは、自分にとって、「訳の分からない者」である。自己存在に向かって、「なぜ?」を突きつければ、それが〈真実〉であることが分かる。「なぜ?人間として生まれたのですか」、「なぜ?男として生まれたのですか」、「なぜ?この時代に生まれたのですか?」、「なぜ?日本人として生まれたのですか」、このように「なぜ?」を突きつけてみれば、いままで「訳の分かっていたこと」が剥がれ落ち、それらがすべて「訳の分からないこと」に変身する。
一つも、自分が決めたことはないのだから。すべては自分にとって受動的だ。これは、なにも特別なことではなく、人間がそもそも持っている本来性ではないのか。
しかし、人間は、「自分とは○○のものである」と自認したいし、そのように他者に向かって表明したい欲望を持っている。特に、高学歴、高年収、セレブ生活、有名企業、美的身体、名声、地位、肩書きなどは、煩悩をくすぐる。他者と比べることで、自己存在を高位置に位置づけようとする煩悩だ。それらはすべて自己の装飾品なのだが、そんなものでも身にまとわせないと、自我が不安定になるのだ。自我は、知っているのだろう。もともと、自分がドーナッツであることを。真ん中は空洞であることを。だから、それを恐れて自我を不安定にするような情報は排除しようとする。
ところが仏教は、「生老病死」をむき出しに突きつける装置だ。自我を固めようとする企みを、悉く不安定にする。だから、仏教が流行らないのは当然だ。人間が貯めよう、固めようとすることを、悉く不安定にする装置だからだ。
それは、「自分とは○○のものである」と自認したい煩悩にとって、最大の敵だ。信仰すら、自認の煩悩の餌食にしようとする。「修行年数」とか、「信心獲得」などは、それに当たる。「自分とは長年修行をしてきたものである。」とか「私は信心をいただいたものである」という言い方で、自分を認めようとする。それを根本批判するのが、親鸞のこの言葉だ。
「たとい、牛盗とはいわるとも、もしは善人、もしは後世者、もしは仏法者とみゆるように振舞うべからず」(『改邪鈔』)と。
果たして、このようなことを親鸞が実際に発言したかどうかは分からない。まあ、そんなことは、ここではどちらでもよいことだ。「そのように発言していたとしたら」という仮定の話だ。ここでの表層文脈は、自己を物知り顔の仏法者だと、あえてひとに向かってひけらかすようなことはするなという批判である。ただ、その深層には、自分が物知り顔の仏法者であるという自認がある。自認があるから、ひけらかしが生まれる。
真宗教団を構成する人々も、「自分は真宗門徒である」とか、「住職である」などという自認を持っている。その「自分は○○である」と自認することを許さない働きが、親鸞にそんな発言をさせたのではないか。つまり、自認の深層には、「自己肯定」感という煩悩が張り付いているということだ。
真宗には、「戒律」や「修行」がないのは、それらが「自己肯定感」という煩悩から生まれた装置だからだ。まあ一口に「戒律」と言っても、「戒」と「律」とは違う。「律」は、他者との関係に於ける規則だが、「戒」は、つつしみ、いましめという自己規則である。
親鸞は、「無戒名字の比丘」(「愚禿悲歎述懐」和讃)と言っている。「戒律にも当てはまらない見せかけだけの僧侶」という意味だ。そう親鸞に言わせたのは、戒律を「持った者」と「持たざる者」との線引き問題が生じるからだ。なぜ、それが問題なのかと言うと、それは、親鸞を縛っている〈真実〉の基準つまり、〈真・宗〉に抵触してしまうからだ。
親鸞を縛っている〈真実〉の基準とは、「いつでも性、どこでも性、誰でも性」である。この「誰でも性」に抵触してしまう。戒律を守れる者と守れない者、そして修行のできる者とできない者が生まれるということは、そこに「誰でもが救われる」という法則が破られてしまうのだ。豚を食べないという戒を守ろうとすると、自分を「救いに近い者」として自認し、他者と差別化することになる。自分では差別化したなどとは、少しも思ってはいない。ただ、〈真実〉の基準に照らしてみると、そういうことが言えるだけだ。それほど厳しく自己を戒めてはいないとしてもだ。できる範囲で守れればよしとしたとしてもだ。それは程度の差であって、本質的には変わらない。
しかし、真宗教団の僧侶には、理想とするような規範がないために、逆に無秩序になっているようにも見える。真宗の習俗は、「肉食妻帯」と言われる。「肉食妻帯」を自己肯定するための免罪符として利用している感もある。しかし、本質は、「自分は○○である」と自認することが煩悩であり、それが「誰でも性」に抵触することだと、どこかで直観している故なのかも知れない。
〈真・宗〉は、「自分とは○○である」と自認し、それで完結することを許さない法則性だ。つまり、自分にとって、自分とは、本質的に、「訳の分からない者」なのだ。この「訳の分からない者」こそが、「訳の分かった者」の苦しみを和らげるはたらきをすることもできる。「訳の分からない者」とは、自己はもちろん、他者をも計る秤が壊れた存在だからだ。
よく、西本文英先生が、「ご覧の通り」と言われていた。あなたがどのように私を見ようとも、それはあなたがご覧になった通りの私でございます、という意味だ。それはあなたが、あなた自身の目で見たような私であって、そこに本当の私自身は居ないという意味だ。だから、私をどのようにご覧になっても、それは私とは無関係の出来事だ。どのように見られようとも、そこに私は居ないし、それが私の本質ではないと知っておられるのだ。
もっと突き詰めれば、私自身が私の本質を知らない、つまりは「訳の分からない者」であるのだ。これが「無戒名字の比丘」の本質であろう。
もともと、「訳の分からない者」として生まれ、「訳の分からない者」に目覚める、こんな単純な装置が〈真・宗〉だったとは。