続続続 離別心情観察記録

昨日、「武田美輪」を火葬場で焼いた。残ったものは、白骨だけだ。寺に戻り、還骨勤行、そして中陰壇勤行を済ませ、お齊をいただいた。
 骨の量を見たとき、娘も私も、少ないなと感じた。やはり、ガンが骨まで食い尽くしていたのか。以前医師からは、ガンは貪欲で、口から食べた養分をも食い尽くしてしまい、身体に取り込めなくするのだと聞いた。だから、食事を摂っても、どんどん痩せてくるのだそうだ。栄養状態とガンの進行を見るのは、血液中のアルブミンの数値で、アルブミンが「2」という数値まで下がってきたら、かなりガンが活発に進行してきたと判断すると言われた。
 だから、骨までガンが食べてしまっていたのかと思った。それはそれとして、白骨を見ると、やはり、この骨は彼女の「抜け殻」だと思った。蝉の抜け殻のように、カスカスの「抜け殻」だ。それでは、「本当の武田美輪」はどこに往ったのか。それはやはり、阿弥陀さんの浄土へ往ったのだと感じる。方便法身という「抜け殻」を残し、法性法身の「武田美輪」に成ったのだ。
 その浄土とは、目と鼻の先だから、すぐそこだ。目と鼻の先なのだが、これが永遠の遠さをもった目と鼻の先だ。永遠に遠いのだが、すぐそこでもある。こうなってくると、実に娑婆とは短く、薄く、微かなものだと思えてくる。変な言い方だが、いままでは娑婆から浄土を眺めていたが、いまは浄土から娑婆を眺めている。浄土から、娑婆を眺めると、この世のあらゆるものが、阿弥陀さんの〈いのち〉の教育を受けるための教材に変化する。
 現象の世界は、六境(色・声・香・味・触・法)のみで感じる世界である。人間は、それ以外の感覚を持っていないので、このインターフェースを外せば、人間には「世界」を感じ取ることはできない。つまり、存在を失うから、「無い」ということになる。
 この微かな娑婆という現象を成り立たせ、支えているのが「縁起(関係性)」である。つまり、その事物が事物として現象するための背景(無量無数の条件)である。もし一つの条件が欠けても、いま目の前にしている景色は成り立っていない。微かなことであっても、そこには目に見えない膨大な背景が感じられる。まさに「万劫の初事」だ。
「武田美輪」という微かな現象とは、私にとって、方便法身だった。そこから辺りを見回してみると、この世に生きている人間は、すべて方便法身ではないか。木も石も、団地も電柱も、すべてが方便法身だ。彼らが指さしている方向が「西方」、というだけのことだ。
「西方」とは、宇宙の終焉だ。すべてのものが終わっていく方向性だ。この宇宙の終焉を目の前に、宇宙開闢以来の現象界に、微かに浮かんでいるのが私という〈いのち〉だ。
 蓮如さんは、「まことに、死せんときは、かねてたのみおきつる妻子も、財宝も、わが身にはひとつもあいそうことあるべからず。」(『御文』第一条第十一通)と言われるが、これは〈真実〉だ。お前は、何を本当に信頼して生きているのかと、強烈に問いかけてくる。何が、それを信頼させているのかと言えば、それは「貪欲」という煩悩だ。突き詰めれば、自力のこころだ。そのことに気づかせ、「貪欲」から解脱させる。解脱とは、解体し脱出させるという意味だ。だから自分も信頼しないが、阿弥陀さんも信頼しない。人間の「信頼」とは煩悩以外にない。それへの目覚めが真の自律だ。
 ただ、それは煩悩が煩悩として、ありありと見えるというだけのことだ。煩悩以外のインターフェースを持っていないから、煩悩をも煩悩であれこれといろうてしまう。そのいらわれる直前の「純粋な煩悩」を掬い取れればよいのだ。煩悩と「純粋」とは結びつかないようだが、本当は、煩悩も人間に所有されてはいない。人間を超えて、人間の上に展開するのだから、これは「純粋」なものだ。
 何を、どう思おうとも、それは煩悩の範囲内で、それを超えることはできない。ただそこに壁があるだけだ。壁の内から外を見るのではない。壁の外から、内を見るのだ。ひかりを見つめようとすれば、それは「超日月光」だから、目が焼き潰されてしまう。そこで身を翻身させてみれば、ひかりに包まれた世界が浮かび上がってくる。これが娑婆を浄土として受け取るコツである。