続続 離別心情観察記録

 連れ合いは、11月1日の午前7時39分に呼吸が止まった。当初、10月29日から、いつ旅立たれてもおかしくない状態だと医師に告げられ、息子(次男)は病室に泊まっていた。しかし、29日は旅立たず、30日になった。今晩が山かも知れないというので、30日は私も病室に泊まった。小さなソファーがあり、そこで3時間ほど仮眠は取れた。息子は、ベッドの横の椅子に座り、ベッドの柵にもたれかかっていた。
 ところが、30日にも旅立つことなく、31日を迎えた。こうなってくると、いつ旅立つかも知れないという危機感が薄れ、いつまで待っていればいいのだというイラつきすら感じた。このまま一週間も待たされたら、待っている我々のほうが体調を崩してしまう。
 それを感じた連れ合いは、「天井日記」と書かれたノートに、サインペンで、判読できないような文字で、「みんなうちへかえってねてください」と記した。自分の身体がもうじき終わろうとしていているのに、自分の身体以上に家族を労る優しさに、打ちのめされた。やがて、血圧も下がり、血中酸素濃度も下がってはいたが、意識は、ほぼ鮮明に保っていたようだ。
 大学ノートに「天井日記」と書いていたが、これは上手い銘々だと思った。「なぜそんな名前にしたの?」と聞いたことがあった。すると彼女は、「だって天井しか見ることができないんだもん」と言った。寝返りも打てず、天井だけを見続けて、彼女は何を思っていたのだろうか。達磨大師は、「面壁九年」と言われたが、天井に向き合った彼女も禅の境地を体験していたのかも知れない。やがて訪れる、自分の旅立ちを意識しないことはないはずだ。眠ったまま、このまま逝ければいいのに、とも口にしていた。
 この段階になると、鼻から送り込まれていた酸素のチューブも不快だと言って外してしまい、血圧測定などの医療行為も拒否していた。もう食物も食べられなくなった状態の口は半開きで、喉の渇きを訴えた。口内が乾くので、時々、氷を要求した。食物や水分は、誤嚥性肺炎を引き起こす危険性があるので、与えられていなかった。氷を美味そうに、コリコリと砕く音が病室に響く。
 ところが、31日のお昼、13時38分に、いままでつぶっていた目を開き、ものを語り始めた。後から思えば、これは、「中治り現象」というものだった。ひとが最期を迎える少し前に、まるで病気が治ったかのように覚醒する現象のことだ。まるでいままで昼寝をしていたひとが、むっくりと眠りから醒めたかのように思えるほどだった。そして、ノートとサインペンを渡してくれと言うのだ。何かを思いついたというので、早速、手渡した。ところが、もうペンで文字を書くことなどできる状態ではなかった。私は、これはビデオに残すべきだと思い、素早くスマホで撮影を開始した。
 私の耳を彼女の口元近くに持っていった。そうしたら彼女は、こう言うのだ。
「貴方は、五官の中で残したいとしたら、二つだけ、残したいとしたら、何か?考えて下さい。」と。
 私は、このような状況で、このような質問をされるとは思わなかったので、面食らった。
そして、応えあぐねて、「そうだなぁ…」と漏らすと、彼女は、「ゆっくりでいいの」と宥めてくれた。
 しばらく考えて、私は、「見るだな。見るが大事だな」と応えた。すると彼女は、「決まったん?」と聞き返した。
 私は、それには応えず、続けて、「見ると聞くかな」と応えた。彼女は、「もう決定でいいの? 急にそうなるの?」と語り、続けて、自分もそう思うと言うと、そのまま黙ってしまった。「急にそうなるの?」の意味は不明だったが、もはや質問に答えられる状態ではなかったので、放置した。とにかく、ひたすら聞き取ろうと思った。それから、彼女はノートとペンを胸に乗せ静かになった。
 しかし、14時27分に再び口を開いた。今度は、「今日一日を限りにするには、どうしたらいいか、考える」と、やたら現実的なことを語った。それであらゆる医療行為を拒否したのだと分かった。これは邪推なのだが、10月31日は、実父・法純の命日でもあったので、この日に旅立とうと企んでいたのかも知れない。ただ現実には、翌日の11月1日に旅立つこととなった。惜しいニアピンだった。
 この段階に入ると、というと変なのだが、もはや我々、生者の邪推や思惑を遙かに超えたところに彼女のこころはあったのだと思う。だから、彼女のあるがままのこころをそのまま受け止めること以外にはできなかった。
 息子が、一分間に何回呼吸をするかを時計を見ながら数えていた。「一分間に六回だな」と言った。それがやがて少なくなり、とうとう7時39分に完全に止まった。手を口元に近づけても、呼気はなかった。でも、心臓の拍動はまだあった。人間は一度にすべての生理機能が停止するわけではない。徐々に、段階を経て、すべてが静かに停止する。
 それからナースコールを押し、医療スタッフの手に引き渡すこととなった。もちろん準備をしておいて葬儀屋さんにも連絡を入れ、今後の段取りなどを相談した。親しく接してくれていた看護師さんたちにエンジェルケアなどを施され、葬儀屋さんの用意したストレッチャーに乗せられ、エレベーターで地階へ降り、遺体搬送用の自動車へ乗せられた。振り返ると、担当の医師や看護師さんたちが、深々と頭を下げて見送ってくれた。私は、彼らに近寄り、「私も、そのうち来ますから、そのときは宜しくお願いします」と挨拶をした。まあ、そう挨拶されても、彼らはなんと返答してよいやら困った顔をしていた。「こんなことを言うひとは始めてだ」と思われたのではなかろうか。
 まあ彼らは私が僧侶であることを知っていたので、大目に見てくれただろう。寺は、一般人に比べて「死」と身近に接する業界だから、緩和ケア科と地続きの関係でもある。あるとき担当医に、こんな話をした。「我々の寺でも、門徒のひとが亡くなりましたと連絡をもらうと、すぐにまた別のひとが亡くなったと電話が入り、お葬式が続くことがあるんですよ。こちら(緩和ケア科)では、そういうことがありませんか」と。すると、医師は、「そうですか。こちらでもそういうことはよくあります。潮の満ち引きに関係しているとかも言われますけれど。お旅立ちになるかたは、やはりお一人で逝くのは寂しいのでしょうね。どうも団体で逝かれることがよくあります。」と。担当医は女医さんだったが、なかなかのユーモアの持ち主でもあった。
 遺体と共に寺に戻り、それから通夜葬儀に向けて、さまざまな打ち合わせなどがあり、その日は、ドタバタしながら過ぎた。
 翌日は、港区のお寺の報恩講を頼まれていた。お寺に着き挨拶を済ませ、私は住職に「実は、うちの坊守が昨日、亡くなったんだ」と告げた。それを聞いた彼は、驚きを禁じ得ず、大きな声で「ええっ!」と叫んだ。一応、法要が済み、その後の法話も終わり、住職が門徒へ向けて挨拶をした。「実は、武田先生の奥さまが、昨日亡くなられたのです。」と。それを聴いた聴衆は、一瞬、驚いたようだった。
「そのような大変な中でお越しいただき、申し訳ないと言いましょうか、とにかく有難うございました。」と住職は続けた。続けて、「自分の妻が亡くなっても、法話をするという。それほどまでに、仏法を伝えることが大事なことなんだと、改めて教えられました」と語った。それを聞いたとき、私は聞き捨てならないことを聞いたと思い、彼の話を中断し、こう発言した。「私は、何も仏法を伝えるために法話をしているわけではありません。ただそうぜざるを得ないことを、そうしているだけなのです」と。
 私の中では、「妻の旅立ち」と「法話」という行為は地続きのことなのだ。それは、そうせざるを得ないという点で繋がっている。もし、「妻の旅立ち」と、「仏法を語る法話」とが別のことになってしまったら、それは仏法の出来事ではなくなる。だから、身体的には厳しいことであっても、「法話」はしなければならないことだった。もし連れ合いが、そこにいたなら、「法話に行きなさい」と言ったはずだ。「法話」とは、明日をも知れぬいのちのギリギリの表現活動だからだ。
 今晩は、「お通夜」である。弔問客が大勢見えるだろう。そして、各人が各人各様に、悲しみを感じて下さるだろう。それは「武田美輪」とどのようなご関係にあったかでずいぶん違ってくる。つまり、「武田美輪」という身体は一つであっても、この身体と関係のあったひとの数だけ、そのひとのこころに住む「武田美輪」は違っているということだ。身体は一つでも、関係は無数である。百人と関係があれば、百の「武田美輪」が存在するようなものだ。そして、各人のこころの中に住んでいる「武田美輪」が、本当の「武田美輪」だと思い込む。さらに、この「武田美輪」を失ったことで悲しみが起こる。しかし、そこに本当の「武田美輪」はいないのだ。
 或る日、病室を訪れて下さった見舞客が、ベッド上の美輪にしがみつき、おいおい泣いていた。私は、二人がハグし合っている姿を、後方から眺めていた。すると仰向けになっている美輪が、「やれやれ」というような顔で、私のほうを見た。当然、ハグしているほうは、そんな美輪の顔を見ることなどできない。見舞客の悲しみと、美輪の悲しみが一致すれば、二人ともおいおいと涙を流す「名場面」となるのだが、そのときは、そうならなかった。
 見舞客は、見舞客の中に住んでいる「美輪」を失うことの悲しみを表現していただけだからだ。美輪はそこにいないのだから、置いてけぼりにされたのだろう。それで「やれやれ」という顔で、私の方に目をやったのだろう。
 こんな場面を見ても、人間は他者のためには泣けない生き物なのだと、あらためて教えられる。『歎異抄』(第四条)の「いかに、いとおし不便とおもうとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし。」である。人間の愛や悲しみは、二十四時間、感じ続けることはできない。これが「始終なし」である。二十四時間感じ続けることができないのは、亡き人の苦しみ以上に自分を優先してしまうからだ。若くしてご主人を亡くされた女性が、お葬式のとき、火葬場で漏らされた言葉が忘れられない。「こんなときにも、私って、お腹がすいてしまうのですね」と。彼のことを二十四時間、思い続けることのできない哀れさを感じられていた。人間の悲しみとは、ナルシズムから起こるからだ。
 こんなことを言うと、あまりに赤裸々というか、身も蓋もない話のように聞こえるが、これが〈真実〉のデッサンなのだ。もともと身も蓋もないのが、人間なのだ。身も蓋もあるように錯覚していただけなのだ。赤裸々に丸裸にされて、綺麗さっぱりと救われていくのだ。