妻の遺体を見る。11月1日に亡くなったので、徐々に顔が変化してくる。一応、湯灌のとき、化粧はしてくれるのだが、顔の筋肉が落ちてくるのだろう。私が知っている顔とは違ってきた。口の部分が突き出てきて、頬の肉が落ちてきたようだ。
毎日、十五キロのドライアイスを抱いていないと、通夜が予定されている10日までは肉体が持たないのだそうだ。持たないというのは、腐敗が進んでしまうということだ。それで昨日、葬儀社の霊安室に預かってもらった。
肉体は、生理機能が停止した途端に、腐り始める。やはり、生ものなので、それは当然だ。こうなって来ると、ますます、連れ合いとは何なのかが分からなくなる。あの腐り始めた遺体は、もはや彼女自身ではないように感じる。木村敏さんが言うように、人間はコト的なものであって、モノではないのだろう。モノは手で触れることも、目で見ることもできるが、コトは見えない。息をするのは、肉体というモノだから目で見ることができるが、息をするコトは目には見えない。いのちはモノ的でありつつ、コト的である。
しかし、コトはいつもモノに支えられているので、モノが無くなった途端に、コトは不安定になる。コトとしての連れ合いは、「思い出」として私の中に留まっている。でも、この「思い出」もモノではないのか。彼女の断片であり、それを切り取ったフレームでしかない。こうなると、やはり、彼女そのものはコト的存在だったのだと思われる。
コト的存在を擬人化して、「観音菩薩」と受け止めている。妻として、母として、坊守として支えてくれたのだから、私にとっては、「観音菩薩」だ。「観音」は、誓願を本質とする抽象的な阿弥陀さんが、具体的な身体を持ってはたらくときの名前である。阿弥陀さんが、具体的な身体を持ってこの世に現われ、我々を養育し、お仕事が終わったら、再びお浄土へ還られる。
お浄土は目と鼻の先だ。ずっと遠くに感じていた思いが破られ、一瞬先のところに浄土が接してくる。そこは、彼女ばかりではなく、あらゆる生物が往くところでもある。この世に留まっている存在以上に、浄土へ旅立った存在のほうが圧倒的に多い。だから、この世以上にあの世は賑やかなのかも知れない。
そもそも私のそのものも、阿弥陀さんからやって来ているのだから、また浄土へ還されるのだろう。この世に生み出すのも、この世を旅立たせるのも、すべては阿弥陀さんの仕業だ。だから、私が生きているのではない。阿弥陀さんが身体を持って、現象させているだけだ。この身体を、自分のものだと思わせ、一番大切にしろと命じられ、辛うじてここに留まっている。そのことの意味は、阿弥陀さんのみがご存じなのだ。
私には知らされていない。