離別心情観察記録

 連れ合いと離別してから、離別した人間とは、どのような情感や心理的変遷を取るのかを観察してきた。つまり、私は自分とどういう人間関係を取っているのかを確かめたかった。
 まず、「武田美輪」との関係を述べてみよう。
「武田美輪」とは、1977年に大谷大学で知り合い、1980年に結婚した。「武田美輪」は1959年に大分県で生れた。もし大谷大学(京都)がなければ、東京の人間と出会うこともなかっただろう。
 48年前に京都で出会い、2025年11月1日に東京でお別れした。48年間のお付き合いだった。小生は今年71歳になるので、人生の三分の二に当たる。
 これだけ長い間、人生を共に歩んできたと言えるような人間はいない。そうは言っても、もはや「武田美輪」は、「思い出」の中にしか存在しない。「武田美輪」と関係のあったひとが百人いたなら、百人のこころの中に、百の「思い出」として彼女は残っているのだろう。何度も書いてきたように、それは「限定的な彼女」であり、「本当の彼女」ではない。もし「本当の彼女」を探し当てようとすれば、それはタマネギの皮むきと同じ現象になり、無数の彼女が現れ、どれが「本当の彼女」なのかは分からなくなる。まあ、それ全体が彼女なのだろうけれども、それであっても「限定的」だ。必ず漏れるものがあるはずだ。
 以前、「千の風になって」という歌が流行した。亡くなった人は、お墓の中にはいない、風や光や星、そして「千の風」になって吹き渡っているのだという歌だ。これは離別した人間の悲嘆感情を癒やした。でもこれを突き詰めていけば、まあアニミズムの感情だろう。
 私は、それは十分に理解できると評した。ただ問題は、「千の風」どまりであり、やはり、「限定的」なことには変わりはない。お墓の下に居ないことは分かった。しかし、「千の風」のところにも留まってもいない、と言った。人間(生者)が、「これが彼女だ」と受け止めたとき、「本当の彼女」から乖離していく。「本当の彼女」は漏れていってしまう。
だが、漏れていくのが当然なのかも知れない。人間には、本当の意味で、他者を理解するなどということは不可能だからだ。それが人間というものの「本来性」なのだろう。
 そして「本当の彼女」を探すこと自体を手放すときが来る。それが「南無阿弥陀仏」だ。阿弥陀さんにおまかせすることが、手放すことだ。
 そう思うと、彼女との48年間のお付き合いは、「夢まぼろしの如くなる一期」に思えた。
別れのない夫婦はこの世に存在しない。だから、いま私の身の上に起こっていることは特別なことではない。誰にでも起こることが私の身の上に起こっているだけだ。人類が必ず体験するであろう別離を、私はいま、人類を代表して体験している。
 これから私が、彼女がいない人生を何年も生きていくのかと思うとき、寂しく暗澹たる気分になる。だが、人生は、ごく短いもので、あっという間に終わるものだと思えるとき、それほど暗い気分にはならないから不思議だ。居酒屋の席を、先に行って取っておいてもらっている気分だ。私もすぐに往くから、席を取って待っててよと言える余裕が生まれる。
 こうなったら、あらゆる「思い出」を阿弥陀さんに明け渡して、まっさらでいよう。
それが「存在の零度」の場所だろうから。〈唯一人〉として、阿弥陀さんと正対する場所だから。