伴侶の死も他人事

 たとえ伴侶の「死」であっても、それは「二人称の死」であり、「一人称の死」ではない。つまり、それは自分にとっては、「他人事」である。
 遺体全体を見つめているときは、さほど感情は動かない。ただ、顔を見ると、悲しみの感情に揺さぶられる。それは彼女と自分との間に引き起こされる、堪えがたい感情だ。
 解剖学者の養老孟司さんも、死体の解剖をするとき、顔と手を解剖する場面では、感情が揺らぐと言っていたのを思い出す。顔と手には、「動き」があるからだ。顔の表面には、複雑な筋肉があり、これらを微妙に動かすことで表情が生まれる。手も、そうだ。手は常に動いている肉体の部分だ。だから手にも表情があると言ってよい。この表情のあるものい対しては感情の揺らぎを感じてしまう。感情を殺して解剖作業をしなければならないのだが、どうしても感情が動いてしまうのだと、養老さんは言っていた。
 これは偽らざる、人間のありのままを言っている。彼女が亡くなって、二日目の顔を見ても、やはり悲しみの感情に揺さぶられる。顔を見た途端に、彼女と過ごした時間の記憶が、それを引き起こすのだろう。だから、これは私にしか感じることのできない感情である。傍に他人がいても、私と、まったく同じ感情は起こらないだろう。
 私と彼女との間にしかないということは、もっと言えば、私にしかない感情だ。つまり、私が受け止めた限りの感情である。
 記憶が悲しみを生むということは、彼女と過ごした時間の記憶であり、それは私にしか分からない感情だ。もっと突き詰めて考えれば、それは「私が受け止めた限りの彼女との時間の記憶」ということになる。この記憶に対して悲しみの感情を起こすのであれば、それは、私の煩悩が引き起こす感情ということになる。
 彼女の記憶は、彼女の一部分の記憶である。私と関係のあった部分のみの記憶である。つまり、私の知らない部分は私にとっては未知のはずだ。いままでは、彼女の全体を知っていると思っていたが、そうではない。言えば、彼女の一部分のみしか知らないのだ。その一部分の記憶に対して悲しみの感情を起こしているのだ。彼女全体は、未知であり、それは阿弥陀さんのみが知り得る彼女である。
 やはり、「悲しみは貪欲の悲鳴なり」だ。自分を喜ばせ、自分を優遇し、自分を愛してくれるもの以外を愛さないというのが貪欲だ。何度も思い出す、安田理深先生の言葉は〈真実〉を語っている。「夫は夫自身を愛するが故に妻を愛し、妻は妻自身を愛するが故に夫を愛す」と。
 人間には、エゴイズム以外に「愛」は存在しないのだ。愛する存在をなくして悲しむのは、子どもが、自分のお気に入りのオモチャを取り上げられて泣くのと同じだ。お気に入りのオモチャでなければ、決して泣かない。
 悲しみの涙は、貪欲が遮断されたときの悲鳴なのだ。まあ、これは身も蓋もないことを言っているのが、ありのままを克明に描くことは、〈真実〉のデッサンの手法なのだ。私の描ける部分は、影の部分だけだ。影を色濃く描くことだけが、ひかりを浮かび上がらせる。
 こうなってくると、私は彼女全体とは、まだ出会っていないことになる。彼女の一部分に対して悲しみの感情を懐いているが、それは大変失礼なことをしているようだ。自分のお気に入りの部分だけをオモチャとして取り出し、それを取り上げられて泣いているだけだから。
 やはり、人間は、他者のためには泣けない生き物なのだろう。悲しいのは、自分が悲しいのだ。自分の貪欲が悲しいのだ。つくづく自分自身のため以外には、涙を流せない生き物なのだと思い知らされた。