いままで「真宗大谷派」に於ける教団構成員の関心は、「親鸞宗」だったようだ。つまり、「親鸞」が〈真実〉を語っていて、「親鸞」の信仰だけが正しく、他者の信仰は二次的なものだ、という関心だ。ちょうど、日蓮を「宗祖」とする教団構成員が、「日蓮宗」と命名した関心と同じだ。
この関心は、原始仏教が「釈迦一尊教」だったことと同じでもある。お釈迦さんだけが、真理に目覚めたひとであり、彼の信仰を目指して修行した。しかし、誰も彼の覚りと同等の覚りを開けたひとはおらず、彼の覚りの一歩手前までだと考えた。つまりは、「劣等感信仰」に堕した。
この問題を親鸞は直観して、「釈迦一尊教」から「釈迦・弥陀二尊教」が〈真実〉だと表現したのかも知れない。「釈迦」はあくまで「教主」であり、「教えの言葉を表現する表現者」であり、「救い主」ではないと。「救い主」はどこまでも救済原理である「阿弥陀さん」だと分割した。それで、信仰が、より「健康性」を取り戻せた。釈迦は我々と同等の「煩悩具足の凡夫」であり、その「凡夫」が「阿弥陀さん」に救われるのだと見た。「釈迦」は「表現=記号」の次元にあり、「阿弥陀」は「意味」の次元と分けた。我々は教えの「言葉」に触発されるのだが、その「言葉」の指し示す「意味」によって救われるのだ。「言葉」の次元と「意味」の次元を分割できた。
キリスト教も、「神とイエス」という形で、それを分割しようと試みたが、うまく分割できていない。「神の子」などという発想が生まれ、どうしても「イエス」を我々と同等とは考えられなかった。この線引きというか、峻別が、その信仰の「真実度」というか、「健康性」のバロメーターである。親鸞は、この線引きに一生を捧げたと言ってもよいだろう。
我々の教団構成員は、せっかく「教祖」の名前を排除して、「真宗」という普遍の救済論理を教団名に採用したのに、いまでは「親鸞宗」に成ってしまったようだ。
いわば、「親鸞」がいるから、それだけで安心なんだ。我々はその「親鸞」の系譜に属しているから、何があっても大丈夫という安逸を貪っている。「親鸞」という大黒柱があるので、自分はその家の中にいれば安心であり、安全が確保されていると思っている。 しかし、それは「親鸞」が一番嫌ったことではないか。「親鸞」は主著の『教行信証』に『論語』を引いている。これは凄いことだ。普通は、自分の信仰の正しさを表現する場合、仏教関連の書籍だけで正しさを証明する。仏教関連の書籍を「内典」と呼び、それ以外の思想文献を「外典」と呼ぶ。しかし、親鸞は「外典」である、『論語』を引いている。この関心は、「内典」だけではなく、「外典」を使わなければ、本当の正しさを証明することはできないという関心ではないか。この関心を延長して考えれば、「親鸞」当時の、全世界の思想とは、インド・中国・朝鮮・日本である。つまり、全世界の思想をパッケージした中で、本当の正しさを表現しようとしたのではないか。「親鸞」当時は、ヨーロッパの思想は、伝わっていなかった。
この関心は、仏教以外の思想を排除して正しさを証明しようとする関心ではない。むしろ、仏教以外の思想をも〈真・宗〉の視点に包摂して正しさを証明するという関心だ。それで、「親鸞」は、いわゆる「読み替え」という手法を用いた。文字は『論語』の記号を採用するのだが、それを孔子の視座ではなく、〈真・宗〉の視座から「読み替え」た。「読み替え」て〈真・宗〉の正しさを証明した。
仏教以外の思想と対立するのではなく、それを包摂するという態度である。これは、もっと言えば、思想の問題を超えて、自己一人の上に、全世界を包摂する視座を開く、〈一人一世界〉への覚醒でもある。
つまり、いままで「親鸞宗」に生きていたものが、〈真・宗〉を生きるものになるということだ。〈真・宗〉に覚醒すれば、もう「親鸞」に依存することはできない。つまり、「親鸞」を自己存在の言い訳に使えなくなるのだ。「親鸞宗」は、自分の正しさを「親鸞」を使って証明しようとする姑息なやり方なのだ。別な言い方をすれば、「親鸞」を「アイドル」にするやり方だ。「アイドル」とは、それを熱愛する信者の思いが投影された存在という意味だ。だから、「アイドル」は、自分好みの顔に塗り替えられる。ある門徒のおばあちゃんがよく言っていた。「親鸞聖人の肖像画があるけれど、あれは本当のお顔ではないのよ。親鸞聖人があんなに不細工のはずないもの。もっとハンサムだったのよ。でも、ハンサムだと皆にやっかまれるでしょ。だから、あえて不細工に描かせたのよ」と。こういう感性が「親鸞宗」の信奉者だ。
〈真・宗〉とは、「親鸞」を「教主」とする見方だ。つまり、私の「隣にいるひと」と見ることだ。だから、その時代や人間性に制約され、限界を持ったひとである。『歎異抄』を見ると、「親鸞」自身も、そう言っていたという。「おおよそ聖教には、真実権仮ともにあいまじわりそうろうなり。権をすてて実をとり、仮をさしおきて真をもちいるこそ、聖人の御本意にてそうらえ。」(後序)と。
「聖教」とは、お釈迦様の説かれた経典も含まれる。親鸞以前では、経典が絶対であり、間違いのないものだと見てきた。つまり、経典を丸ごと〈真実〉の基準にしてきたのだ。しかし、親鸞はその経典の権威を相対化している。たとえ絶対基準の経典であっても、「真実の部分とそうではない部分」とが混在していると。だから、「真実の部分」を採用し、そうではない部分は捨て置けと。
これを「経典」から、「人間」に読み替えれば、権威の相対化が成り立っている。「お釈迦様絶対主義」を相対化しているのだ。ただ、何を持って、「権をすてて実をとり、仮をさしおきて真をもちいる」ときの基準としているのだろうか。これが私の言う「〈真実〉のフォルム」である。これは『涅槃経』が直観した「仏性」のことでもある。「一切の衆生に仏性あり」という表現は、あらゆる存在の中に、〈真実〉に共鳴する琴線があるという意味だ。この琴線に共鳴した部分を頼りとする以外にない。
だから、何が正しいのかを「他者の権威ある言葉」を持ってきて証明できないということだ。これは大変な苦労を伴う。その大変さは、〈真・宗〉は、自分が開かねばどこにもないから、自分が開かねばならないものであり、「親鸞」に決して依存できない大変さだ。〈真・宗〉は自分が動かなければならないので、大変な信仰だ。「親鸞宗」の安逸を貪っていた人間が、その城から出て、汗水を垂らしながら〈真・宗〉を開く。それが〈真・宗〉の醍醐味である。〈真・宗〉は、この世にまだ全貌を表してはいないからだ。
その「〈真実〉のフォルム」の断片を、この〈唯一人〉の私が表現するという仕事が与えられている。〈真・宗〉は、ひとをして「表現者」に変えてしまう。
妙好人・庄松の「甘(うま)いところを食う」が、それを証明している。
「庄松、或る家に泊まり、仏前にて正信偈と三首引きはどうやらこうやらつとめ、御文章になると、「信心を以て本とせられ候」、「仏の方より往生は治定せしめたもう」、「このうえの称名は」と、飛び飛びにあげて済んだ。聞く人、「もったいない」と云えば。庄松、「お前達は御勤めして、如来様に聞かせるつもりだからもったいないが、己らは如来様から下さるものを頂くのじゃで、よりどりして甘いところを食うのじゃ」と。
庄松は、文字を書くこともできなかったひとだから、『御文』(御文章)も全文を一字一句正確に読めなかったのかも知れない。まあ丸暗記していたのかも知れないが、とにかく、「聖人一流」という『御文』を飛ばし飛ばし読んだのだろう。だから、それを聞いていたひとが、「そんなにもったいない読み方をして」となじったのだろう。それに対して庄松は反論した。「お前達は御勤めして、如来様に聞かせるつもりだからもったいな」がっているだけだと。そこには、お前達は何のためにお勤めしているのか、という問いが隠れている。阿弥陀さんに聞かせるつもりで読んでいるんだろうと。聞かせて何かの御利益を得ようとしているのではないか、という「利害損得心」をも炙り出している。『御文』だから、「権威」ある書物であり、とにかくそれを読みさえすれば、それで事が済んだように思っているが、それでよいのかと迫ってくる。本当に阿弥陀さんから直々に、『御文』の言葉をいただいているのか。自己自身の内奥に流れる「〈真実〉のフォルム」に響かせて、自己自身への「教え」として聞いているのかという批判である。
ところが庄松は、「如来様から下さるものを頂くのじゃ」と言う。つまり、『御文』を丸ごと「権威」あるものとして鵜呑みにするのではなく、「よりどりして甘いところを食うのじゃ」と。つまり、庄松の琴線に共鳴した部分のみを「聞き言葉」として頂くという意味だ。この「よりどりして」というやり方は、親鸞の「取捨を加うといえども、疑謗を生ずることなかれ」(『教行信証』信巻・序文)と同じことを言っているのだ。何が「よりどり」させているのかと言えば、それは「〈真実〉のフォルム」の要請である。
これは「権威」ある法然に対して、自分(親鸞)の信心と師・法然の信心とが同じだと促した「要請」である。他の先輩・後輩たちは、法然を「権威」として崇め、その「権威」に依存していた。しかし、親鸞は、それに対して「違和感」を感じた。それでは「平等の救い」は成り立たないという直観だ。師・法然と自分とが、「平等に救われる」ことはどこで成り立つのかと。これが「〈真実〉のフォルム」からの要請である。
それが、師・法然の口から「如来よりたまわりたる信心」(『歎異抄』後序)という言葉を引き出した。まあこれを私に言わせれば、「信心」とは、如来のものであり、自分の内面に起こすものではないということだ。私の側から言えば、「信心」とは、「信ぜよ」であり、「まかせろ」という一方的な命令である。人間の内部に取り込むことのできないものだから、師・法然の内部にも、また弟子・親鸞の内部にも取り込むことのできない、「平等」を得たのだ。つまり、法然と親鸞が横並びという「平等」の地平に立たされたのだ。
この「平等」を成り立たせる作用が、〈真実〉である。徹底して、〈真実〉は人間の内部には成り立たないのだと根切りすることで、〈真実〉を感じ取らせる養育法である。