「ダイアログ・イン・ザ・ダーク」体験記

港区竹芝にある「ダイアログ・イン・ザ・ダーク」を体験してきた。季節によって企画が変わるらしいが、今回は「ダイアログ・イン・ザ・ダークの暗闇で体験する大運動会。視覚を手放して、身体感覚を磨こう!」というコンセプトだった。
 ここは、暗闇を体験することから、一人一人が何かを発見する場所である。企業研修などにも使われている。
 まず、我々七名は、指示されるままに、荷物やスマホ、時計などをロッカーにしまった。我々は、この施設の中で何が行なわれるのか、興味と不安の中にあった。案内をしてくれたのは、若い盲人の女性である。
 扉の前で鉢巻きと白杖を手渡され、さて入場となった。最初に通された部屋の片隅には、ほんのりと光るランプが置いてあったので、まだ暗黒ではなかった。ここで白杖の使い方、また暗闇で周りを探るときには、手を内側に向けて探って欲しいと言われた。内側に向けておけば、何かにぶつかっても手が折れる心配がないからだと言う。
「それでは徐々に暗くしていきますよ」と言われ、ランプの明かりが絞られ、とうとう暗黒になった。もう目を見開いても、何も見えない。暗黒では、隣に人がいても気づかないので、お互いに声を出し合うことで存在を確認するしかない。最初は、一列にならんで、前のひとの肩に触れ、白杖を片手に進むことになった。不安な気持ちも、前のひとの肩に触れることで和らいだ。少し進んでいくと、次の部屋へ入った。空間の広さは、声の響きや気配で感じることができた。
 案内の女性は、「丸く円の状態になって座って下さい」と言う。手で地面を触ると、ここには人工芝が引き詰められていたので、そのまま安心して座ることができた。しかし、丸く円座になるには、誰がどこにいるのかが分からなければならない。そのためには互いに声を出し合い、それぞれの位置間隔を確認し合った。そこで、女性は、鈴の付いたボールを取り出し、これを互いにパスし合うように促した。それも対角線上に、転がしてパスして欲しいと言う。真っ暗闇の中で、転がる鈴の音だけが頼りだ。しかし、我々七名は、この課題を難なくクリアした。
 そこで、次の課題へと進んだ。女性は、「さて、ここで皆さんと玉入れをしたいと思います」と述べた。そういえば、今回のテーマは「秋のまっくら大運動会」だ。しかし、真っ暗闇の中で運動会をするというのだから、何をするのか見当も付かなかった。
 女性は、まず自分に近づいて欲しいと言った、そして自分がお腹に下げているカゴに触れて欲しいと。このカゴの中に玉を放り込んで、玉の数を他のチームと競い合いますと。これはいわゆる運動会で行なわれる、「玉入れ競技」と同じ趣旨だ。しかし、ルールがあって、皆さんは私のいる位置から三歩後退して、その位置から私のカゴを目がけて玉を投げ入れて下さいと言う。制限時間は3分間だった。「ただ、どの方向にカゴがあるのか、真っ暗で分からないでしょうから、鈴を鳴らします。ここにカゴがありますから、ここを目がけて投げ入れて下さい」と言った。
 皆は一生懸命に玉を投げた。私は最初に与えられた三個の玉を投げ終えると、対面者の方から、カゴに入らずに飛んできた流れ弾を拾っては、その鈴を目がけて投げ込んだ。そして3分間が経ち、カゴに入った玉数を数えることになった。これも運動会でよくやる方式で数えた。一つ、二つと皆で声に出しては、カゴから玉を出した。その役は小生が引き受けた。とうとう27個で声が止まった。全部で50個の玉があったそうだ。そのうちの27個だから、半分強だ。
 全部のエクササイズが終了して、分かったことだが、本日の他のグループと比べて三位の成績だった。
 玉入れが終わると、また肩に触れて一列になり、次の部屋へ入っていった。
不思議なもので、目を開けたまま暗闇の中で動き回ると、何となく、あたりが見えるような気になるのだ。私は思わず、「周りが見える」と口走った。しかし、しばらく動き回ると、壁に行き当たり、「見えている」ということが錯覚だと分かった。視覚からの情報がゼロになると、脳が勝手に見えているような錯覚を引き起こすのだろう。これも不思議な体験だった。
 次の部屋の床は、ゴツゴツしていたり、砂利が敷き詰められているような空間だった。大きな丸太の大木があったり、ベンチが置かれていたりした。ここは前の空間とは違って、だいぶ危険なものが多いなと感じた。それでも中央のあたりは人工芝なので安心できた。 今度は、女性が、「ここにはボールや綱などの道具がありますから、それらを使って、新しい遊びを考えて下さい」と言う。そんなことをいきなり言われてもと思ったが、皆が、自分の経験の中から、いろいろな競技を思い出し、口にし出した。「大縄跳び」、「組み体操」、「騎馬戦」、「棒倒し」、「パン食い競争」などと、思い思いに口走った。
 小生は、「綱引き」を提案した。これなら、暗闇で安全にできそうな競技だと思ったからだ。とは言え、ここにある紐は綱というよりロープに近かった。長さも確認すると、4メートルくらいだ。これを八人で綱引きするとなると、お互いの位置関係をかなり接近させなければならない。これを立ったまま引っ張りあうのは危険だと思ったので、座ったまま引っ張り合えばよいのでは、と提案した。つまり胡座だ。皆はこの提案を受け入れてくれて、一列にならび、座ったまま綱引きをした。銘々すれば、これは「胡座綱引き」だ。この「胡座綱引き」を二回戦やった。その他には、二チームに分かれ、鈴の付いたボールをランダムに投げ放ち、それを皆で探すというゲームをやった。転がっている間は、鈴が鳴るのだが、一旦止まってしまえば、ボールはどこにあるのか分からない。それを全員で探すのだから、他のひととぶつかることもある。これはかなり難しかった。
 最期に、リーダーの女性からの指示があった。「また一列になって、フォークダンスの「ジェンカ」を踊りながらここを退出します」と。右足右足、左足左足、前へ後ろへ、最期に前へ3回ジャンプする踊りだ。みんな踊りながら、何とか退出することができた。
 参加賞として、ブリックパックの飲み物をもらい、そこを出た。二時間ほど暗闇にいたので、明るさに慣れるまで、少し掛かった。軽いめまいのような感じもした。
 最期の扉から出ると、この体験の感想を書いて欲しいと言われ、思い思いにアンケート用紙を文字で埋めた。我々は視覚という感覚で、かなりの情報を得ていることを思い知らされた。当然、盲人の彼女のことも思った。視覚障害者は、どれほど不自由な生活を送っているのだろうか、と。そう思ったら、星野富弘さんの言葉が思い出された。星野さんは、「不自由と不幸は結びつきやすい性格を持っているけれども、それは違うのだ」と。「不自由」は事実だが、それを「不幸」と考えるのは人間の価値観だ。つまり、仏教語で言えば、それは「煩悩」が色づけした幻想ということだろう。だから、私が彼女を見て、「さぞや不自由だろうな」と思ったとしても、「だから、彼女は不幸だな」と思うのは間違いなのだ。この「不自由」をどのように受け止めるかは、彼女自身が決めることであって、決して他者である私が決めるようなことをしてはいけない。私は彼女ではないのだから、そんな越権行為の罪を犯してはならないと思った。
 そして根源に帰って考えてみれば、この宇宙の状態は暗闇なのだ。我々は、たまたま太陽という恒星があるので、そのひかりを受けることができているだけだ。恒星のひかりが届かない惑星はたくさんある。さらに言えば、この恒星にも寿命がある。つまり、暗闇が宇宙の常態だったのだ。
 ひかりの世界とは、実に微かな状態で、暗闇こそが永遠であったのか。ひかりを受け取る視覚があるものだから、いつの間にか、ひかりの世界が常態だと錯覚してしまう。それは間違いだったのだ。暗闇こそが、常態であり、我々の故郷だったのか。そんな暗闇の底から、『歎異抄』の言葉たちは紡ぎ出されて来たのだろう。だから、『歎異抄』は闇夜に馴染み深い。