阿弥陀さんは、いつでも「後出しジャンケン」だ。だから、私はいつも負けてしまう。
蓮如は、「人にまけて信をとるべきなり」(『蓮如上人御一代記聞書』160)と言っている。これは「人にまけて」だが、この「まけて」という信仰態度は、阿弥陀さんにも通じるのではないか。
ただ、「人にまけて」とは、いささか作為的に負ける感があるが、阿弥陀さんに負けるには、作為は混じらない。むしろ、「ただほれぼれと弥陀の御恩の深重なること、つねはおもいいだしまいらすべし。」(『歎異抄』第16条)の「ただほれぼれと」負けるのだ。
あらゆる場面、いついかなる時でも、私は煩悩というアンテナで、すべてを受け取ってしまう。煩悩というアンテナを通して以外に、私は物事を受け取ることができない。その最たる煩悩が、「貪欲」だ。
「貪欲」は、「自身に貪着」し、「自身を供養し恭敬する心」(『浄土論註』)のことである。すべてのことにレッテルを貼り、それが「自身を供養し恭敬する心」に適っていれば受け入れ、それを拒否するものは排除する。だから、「当てが外れる」ということがよく起こる。自分の思惑通りにことが運べばよいのだが、そうではないことが多いからだ。
問題は思惑通りにことが運ばなかったときだ。そのとき「当てが外れた」という思いが起こる。そこで、阿弥陀さんからのジャンケンが繰り出される。「何と比べて当てが外れたのだね?」と。「そもそも、『当て』とは何かね?」と。そう問い返されると、「当て」とは、「貪欲」が勝手に描いた架空の「当て」だったと知らされる。自分が思惑を思い描き、その思い描いた思惑が外れただけのことだ。あ~あ~、何だそんなことだったのか、やっぱり阿弥陀さんには敵わないなあ、とジャンケンに負ける。
負けた後、「ほれぼれと」阿弥陀さんにもたれかかっている。