これは親鸞が述べた言葉だ。「仏意測り難し、しかりといえども密かにその心を推するに…」(教行信証・信巻)と続く。結局、阿弥陀さんのこころなど人間には分からないよ、と言っているのだ。分からないのだから、そのお心を推測などできるわけがない。できないにも関わらず、「その心を推する」とはどういうことか。ここにどうも、親鸞が親鸞になった、原点があるように感じる。阿弥陀さんのこころを、我々人間は推測するところまでしかできない。それが限界だ。よく仏教の真理は「言忘慮絶」(ゴンモウリョゼツ)と言われる。言葉も思いも超えたものという意味だ。これも矛盾した表現だ。言葉を超えていることを、どうして言葉で表現できるのか。まあこの「矛盾」が仏法の醍醐味なのだ。NHKで鉛筆作家のドキュメントをやっていた。パーキンソン病と痴呆の連れ合いを介護しながら、旦那は何十本もの鉛筆で彼女をスケッチしていた。裸で老いた尻をめくりあげている彼女の姿が、まるで写真にでもとったようにリアルに提示されていた。光の部分はごく薄い鉛筆で、陰の部分はごく濃い鉛筆で描いていた。「老い」というひとつのことばで語るには、恐れ多い感じの絵だった。そこにあったのは、人間のある瞬間を切り取った〈真実〉だ。これは信仰と同じだと直感した。描くことができるのは、陰の部分だけだ。親鸞が、「密かにその心を推する」と言ったのは、親鸞の信仰デッサンだったのだ。それを読んだ人間が、そこに〈真実〉を読み取れるかどうかだけが問われている。