親鸞は地下二階で語っていた

 親鸞の「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」(『歎異抄』第十三条)という声は、地下二階で語られていたようだ。親鸞のニュアンスは、こうだ。「そのように行為してしまう必然性がやってきたならば、人間は、どのような行為をもしてしまうものなのだなあ。」だろう。
 だが、以前の私はこの声を、地上二階で聞いていた。だからちゃんと聞こえてはいなかった。
 人間のこころには、階層があって、自分の住んでいる階層の言葉しか聞くことができない。「地上二階、地下二階」の建物のような構造だろう。だから、親鸞の声を、自分の住んでいる階の声で聞いてしまう。そもそも地上二階の声を地下二階で聞けるのかという問題はあるのだが。あくまでも、これは譬喩だ。
 地上二階で聞けば、この声は「自己弁護・自己保身」としてしか聞こえない。どのような行為をしても、それが避けがたい必然性で行なったのだと言えば、それは自己正当化の論理となってしまう。
 ところが地下二階で聞けば、これは人間という生き物の、紛れもない実像を表現した声に聞こえる。人間が行為をする原初のところは、いつでも「さるべき業縁」だからだ。つまり、それはそうせざるを得なかった出来事であり、やってしまった後から思えば、そうとしか考えられないような出来事である。これは数秒前の行為の構造でり、人間としてこの世に誕生した原初の構造でもある。すべての行為は、自分の意志よりも先にあり、先にあったということだ。
 地上二階に住んでいた自分は、こんな地下二階の声は聞こえない。それが聞こえるためには、自分が地下二階に降りていかねばならない。こころの階段を一歩ずつ降りていく。そこで親鸞の声を聞かねばならない。