子が母を相対化する時

昨晩のことである。これはいつものことなのだが、私が食卓に着くと、孫(五歳男児)が私の膝の上に登ってくる。あたかもこれが、至極当然のことであるかのように。私に何の断りもなく、するすると乗ってきて膝の上でご飯を食べる。
 これもいつものことなのだが、それを母親が見ては、「ジイジの膝から降りなさい。あんたが乗っていたらジイジがご飯を食べられないじゃないの。重たいんだから降りなさいよ」と叱る。そうすると、孫は仕方なく、私の膝からスルスルと降りていき、自分の椅子に座って食べる。こんな光景が、毎日のように繰り返される。
 ところが、昨晩は違った。いつものように孫が叱られたとき、孫が生まれて初めて反論したのだ。「母ちゃんが、そう言ってもジイジは嫌がってないじゃない」と。そう言って、私の反応を見たのだ。その瞬間、母と孫と私のいる空間が静止したかのように感じた。いままで、こういう反論を聞いたこともなく、この反論に誰もノーと言うことができなかった。まさに意表を突く反論だった。
 もちろん私はノーと言うことなどできようもなく、「うん」と肯定する以外に答えを持っていなかった。これで孫は、ジイジの膝の上での「市民権」を得たのだ。安心して膝の上でご飯を食べ続けることができた。母親は、仕方がないなあとは思ったが、それ以上、孫を叱ることもできなかった。
 後から思ったのだが、これは子が母親を相対化することのできた、第一歩だったのではないか。いままでは、母と子という母子一体感が基盤になっていた。だから、母親の言うことは絶対命令であり、それに逆らうことなどできなかった。母親から諫められれば、すごすごと引き下がるしかなかった。
 しかし、それは母と子という母子一体感に於いて成り立つことであり、孫とジイジという関係は別の人間関係だと目覚める瞬間がやってきた。だから、「ジイジが困っているのではないか」という母親の見方は、一方的なものであり、ジイジが困っているかどうかを、本人に確かめようという動きが生まれた。「どう見ても、ジイジが困っているようには見えない。果たして、ジイジは本当に困っているのだろうか」。こういう問いが彼の中に起こったに違いない。そして、私にその真意はどうなのかと孫は問いを投げた。
 これはいままで母子一体感を基盤にしていた孫が、母親との精神的分離をするための第一歩ではなかろうか。このような記念すべき出来事に立ち会えたことは、実に嬉しいことだ。
 これは人間が、「一人」という意識を獲得するための、一つのステージなのだろう。それに関して、河合隼雄さんは興味深いことを言われている。
「二の象徴性について、ユングは中世の哲学者の考えを援用しながら、人間にとっての最初の数というものは、一ではなくてむしろ二ではないかと述べている。つまり、一が一であるかぎりわれわれは「数」ということを意識するはずがなく、何らかの意味で最初の全体的なものに分割が生じ、そこに対立、あるいは並置されている「二」の意識が生じてこそ、「一」の概念も生じてくると考えられる。二はこのように分割、対立を仮定するものであり、葛藤と結びつきやすい。」(『昔話の深層』福音館書店)
 ここに述べられている、「何らかの意味で最初の全体的なものに分割が生じ、そこに対立、あるいは並置されている「二」の意識が生じてこそ、「一」の概念も生じてくると考えられる」ということが、まさに孫のこころの中で起こったことだったのではないか。
 孫は母との母子一体感に分割が生じ、自分と母という「二項関係」が分裂することで、初めて「一人」ということに目覚めていく。「二」が分裂することで「一」に目覚め、同時に「一」への目覚めが「二」の意識を生むのだろう。この分裂は、やがて、他者と自己という「三人称関係」へと拡大していく。それが延長され、自己とは、地球上にいる八十数億人の中の「特殊な個」という意識にまで上り詰める。
 これをもっと掘り下げて考えれば、「私一人と阿弥陀さん」との関係にまで繋がっていくように思える。自己意識は、母子一体感から分離することで「唯一人」にまで凝固していく。つまり、私は八十数億人が存在する中の「特殊な個」という意識だ。これは生理的なことで言えば、DNA配列でも証明されている。ただこの凝固した「特殊な個」という自己意識は、「孤独感」に傾斜しやすい。世間の賑やかさを見るとき、自分だけが疎外されているように感じてしまう。この感覚は、どうしても「世界」は一つであり、その中に八十数億人が暮らし、私はその中の「特殊な個」だと思うからだ。世界は広く、自分は狭いと。この感覚を、私は「一世界全生物包摂世界観」と呼んでいる。長たらしいので、略して「一全世界」と呼ぶ。
 これは、いわゆる「常識」となっている世界観なので、これを対象化することは難しい。たとえば、大きな部屋の中に二十人のひとがいれば、一つの大きな部屋の中に、二十人が包摂されていると見えてしまう。これも至極当然の感覚である。だが、それは「神の視点」だ。大きな部屋に二十人が包まれて存在していると見える場所は、それらを俯瞰することのできる、上方からの「神の視点」である。「一全世界」とは「神の視点」から見た世界観である。しかし、この「視点」は誰も実体験することのできない「視点」だ。だって、自分から見えている世界は、自分だけの世界であり、その景色の中に十九人が包まれているだけだから。
 他の十九人にとっても、同じことだ。ただ、その自分だけの視点を上空に押し上げて、俯瞰して見たとき、それは唯一の「神の視点」に変化する。本当は「神」でも何でもない、個人的な「視点」なのだが、それを「神の視点」に捏造し、「真実」だと錯覚する。
 また、世界が一つであるという見方は、自己を「特殊な個」という意識に押し込め、価値を剥奪する。それで、「自分一人くらいこの世に居なくても、世界は何も変わらないだろう」という意識(孤独感)を生む。それは、世界が一つであるという意識が、自己自身を苛んでいる姿である。誰かが孤独感を与えたのではない。自己自身の「一全世界観」が、自己自身を孤独感へと追い込むのだ。
 この孤独感からの解放が〈一人一世界〉である。いわば、それは、単純なことである。ただ「一全世界」が幻想だと相対化される視点を得るだけだ。DNA配列が「特殊な個」を生むように、この「個」が生きる世界も、特殊であると見える視点だ。一人に一つの世界が与えられているのであり、一つの世界の中にたくさんの人々が存在するという視点は二次的なものなのだ。これは代替え不能な世界であり、他者と比べることのできない世界である。『仏説無量寿経』は、それを「身自當之 無有代者(身、自らこれを当(う)くるに、有(たれ)も代わる者なし」と表現する。比較とは、その価値が同質のものである場合に限り成り立つ。「速いと遅い」は、「速度」という価値が同質だから比べることができる。「熱いと冷たい」は、「温度」という価値が同質だから比べられる。もともと、「特殊な個」は同質の価値が成り立たない。「生きる」という言葉を使えば、私に代わって私を「生きる」存在はないのだから。星野富弘さんの「不幸と不自由は違う」という表現を思い出した。彼は首から下の身体を動かすことができなかったのだから、とても「不自由」である。しかし、その「不自由」は「不幸」に結びつきやすいのだけれど、本当は異質であると。「不自由」を「不幸」に結び付けるのは、人間の比較心(憍慢心)である。「幸と不幸」という同質の価値が、「不幸」を生むのだ。彼は、自己を孤独感に押し込める「一全世界」観を「幻想」だと見抜いていた。
 我々が、「一全世界」感を持つ限り、孤独感を完全に消すことはできない。しかし、それは消す必要もないのだ。なぜなら、「一全世界」が強固であるほどに、それは「幻想」だと〈一人一世界〉が叫んでくれるから。「一全世界」がなくなれば、〈一人一世界〉の叫びも聞こえなくなる。
 ここから、矛盾したことを述べなければならないので、辛いところでもある。しかしあえて述べていこう。〈一人一世界〉は、誰とも共有することのできない「特殊な個」の世界である。これが孤独感と隔絶しているのは、「特殊な個」が、そのまま「普遍の個」と融合しているからである。この「融合」の意味を紐解こう。
〈一人一世界〉とは、「一切衆生の中の特殊な個」であると同時に、「一切衆生を代表する普遍的な個」でもあるからだ。「特殊」と「普遍」は矛盾するように見えるが、そうではないのだ。「一切衆生の中の特殊な個」は「常識」に近いので、理解しやすいだろう。だが、「一切衆生を代表する個」がイメージしにくい。「一切衆生を代表する個」とは、関係存在である面を言い表しているのだ。仏教は、それを「縁起」と表現した。私たちの身体も、そして、目にしているあらゆる事物も、すべては「関係性(縁起)」で成り立っている。あらゆる存在は事物として、実体的に存在しているように見えるのだが、本質は「関係性」で成り立っている。これを「縁起」という。目に見えている世界は、「縁起」によって成り立った結果(果)の世界だ。花という結果(果)は、種という原因(因)によって成り立つ。しかし、アスファルト舗装の道路に落ちた種は、花を咲かせることはない。そこには、土などの条件(縁)が必要だ。因が条件(縁)を得て果として成り立つ。
 これは「縁起」の説明論理である。これはあくまでも、知的な説明論理であって、必ずしも事実を言い当ててはいない。事実は、その原因(因)にも原因(因)があり、さらにその原因にも原因があるのだ。そしてその原因を原初にまで遡っていけば、その原因は、一気に、生命誕生の原因にまで遡ってしまう。
 それを圧縮して見れば、目の前で咲いている花を花たらしめているものは、何十億年という縁以外ではない。その「花たらしめている」という言い方は、この世のあらゆる存在に当てはまる。だから、私という身体を「私たらしめているもの」とも言いうる。「それが、それとして、そのようにあることを成り立たせている背景」という意味だ。
 この「身体」は生物学で言うところの、「系統発生樹」の末端に成り立つ。つまり、生命が地球に誕生し、いのちが「進化」してきた、この歴史全体が、我が身体として、いま、ここに在るのだ。これこそ、「一切衆生を代表する普遍の個」と呼びうるのではないか。
 これは「事物」としての「身体」ばかりではない。思いもしないことだが、この「意識」も、そうだ。仏教が、「身業(身体的行為)・口業(発語行為)」と同等に「意業(精神的行為)」も「業(カルマ)」と見たのは、それを暗示している。「思う」ことくらいは、自分の思いのままに、自由にできるだろうと思い込んでいるが、それは「事実」ではない。次の瞬間に何を思うかを、我々は「思う」前には知らされていないのだ。厳密に自分の「思い」に着目すれば、それはすぐにわかる。必ず、「思った」後でしか、何を「思って」いたのかは知ることができない。
 だから、次の瞬間に何を「思う」かも、「業」である。「業」とは、「それが、それとして、そのようにあることを成り立たせている背景」を暗示する言葉である。自分は、いつも何を「思って」生きているのだろうか。何かをつねに「思って」いるのだが、それが深すぎて分からない。何十億年という「系統発生樹」の末端で、「思い」も「思わされて思っている」のだ。言えば、「一切衆生を代表する個」として「思い」が私の上に噴出してくる。この私とは、それらを受け取る器なのだろう。私は、ただ受け取ることしかできない。
 何十億年という壮大ないのちの歴史の先端に立たされているのである。