イエスの、「隣人を自分のように愛しなさい」(マタイ書19-12)も、親鸞の「たとえば、ひとを千人ころし(殺し)てんや」(歎異抄第十三条)も、二人は共に、同じものを見ていたのかも知れない。それは、ひとに言われたくらいで人間は何でもできるもんではないと、よくよく知った上で語られたことなのかも知れない。
人間は、自分以外の者を、無条件に愛することはできない。つまり、「無私の愛」は成り立たない。天親も「我心貪著自身」(我心、自身に貪著する)、また「供養恭敬自身心(自身を供養し恭敬する心)と述べている。「我心」とは、自分自身のこころのことだ。「我心」は、徹底して自身を貪ぼり執著し、自己を供養し恭敬するこころである、と。よく仏教界で使われる「供養」という言葉も、本質は「自身供養」以外にはなく、故人の「供養」など、人間には成り立たないということだろう。
安田理深先生の「妻は妻自身を愛するために夫を愛し、夫は夫自身を愛するために妻を愛す」も同じことを言っている。人間は自分を愛してくれるもののみに愛情を感じる生き物であり、自分を優遇し愛してくれないものに愛は感じない生き物だ。
イエスも、そんなことくらいは知っておられたのだと思う。その上で、「隣人を自分のように愛しなさい」と言ったのは、自己愛以外に「愛」は成り立たないぞ、そのことをよくよく自覚せよということだったのではないか。それを聞いた弟子たちは、「ある程度ならできるが、徹底してはやれない」と思っている。だから、「誰が救われることができるのでしょう」と問うた。そのときイエスは「それは人にはできないが、神には何でもできる」と答えている。つまり、それは、ひとそれぞれが「神」との間に、「唯一無二」の「絶対関係」を開けと言っているのだと思う。イエスは「絶対関係」が出来上がっているから、そう答えることができたのだろう。「私が、救われたのだから、この世で救われない者は誰もいない」という含意がある。あくまで、ひとを救うのは「神」であって、人間ではないと。ここに浄土教が言う「二尊教」の片鱗が見える。「浄土教が言う」という表現も、仏教に偏った間違った見方だ。正しくは、「〈真実〉のフォルム」に適った表現と言うべきだろう。
或る信仰が正しい信仰であるかどうかは、その信仰表現が、必ず「〈真実〉のフォルム」に適っているかどうかで判断されなければならない。或る信仰が、「〈真実〉のフォルム」に適った表現である場合に限り、それは全人類を頷かせるものとなる。
「〈真実〉のフォルム」に適った表現とは、「被救済者(ひと)」と「救済原理(ダルマ=法)」とが峻別されている表現である。唐の善導は、それを譬喩的に「釈迦」と「弥陀」とに分けて表現した。釈迦は、我々のいる此の岸(この世)で、阿弥陀さんのいる彼の岸(浄土)を目指せ(発遣)する。弥陀は、彼の岸(浄土)から、お前を必ず護るからこっちに来い(招喚)と呼びかける。この「発遣」と「招喚」が成り立つ場所が「信」である。
「釈迦」が「被救済者」であり、「弥陀」が「救済原理」となる。我々を助けるものは、「弥陀」であり、「釈迦」ではない。「釈迦」はあくまで、「弥陀」をたのめと人々を「勧誘・勧励」する存在だ。譬喩的に言えば、「釈迦」は、徹底して「弥陀」をたのめとしか言えない。だから、「釈迦」に依存する弟子たちに向かって、「自灯明・法灯明」と言い切った。たとえていえば、「釈迦」に従い、「私を助けて下さい」という弟子に向かって、「私があなたを助けるわけにはいかない。私のところに来てもムダだ。阿弥陀さんをたのみなさい。」と言うのが、ひとである「釈迦」の限界である。
これは「〈真実〉のフォルム」に適った譬喩である。ところが、イエスは、よく「私のもとに来なさい」などと言う。まあイエスはすべて譬喩として語るので、それを表面的に受け取るのも間違いだろう。でも、たとえ日常会話の次元で、「私のもとに来なさい」と言ったとしても、こころでは、「私のもとに来ても決して救われない。あなたはあなた自身と『神』との絶対関係を開かなければ救われない」と思っていなければ、「〈真実〉のフォルム」には適わない。
親鸞には、そういう素振りが感じられない。親鸞は、「このうえは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからいなりと云々」(歎異抄第二条)と言う。つまり、「私のもとに来ても決して救われない。あなたはあなた自身と『弥陀』との絶対関係を開かなければ救われない」と言っているから、「〈真実〉のフォルム」に適っている。「釈迦」は「教主」であり、「弥陀」が「救主」であるという鉄則を踏み外さない。 イエスがどうの、親鸞がどうのということを言いたいわけではない。つまり、そのひとの信仰表現が、「〈真実〉のフォルム」に適っているかどうかだけが、唯一の問題なのだ。 冒頭に書いた、親鸞の「たとえば、ひとを千人ころし(殺し)てんや、しからば往生は一定すべし」(歎異抄第十三条)も、まさか弟子が本気で殺人をするとは思っていないから言えたのだ。まあ、これは「日常会話」の次元で言われているので、親鸞の「本心」ではない。それに比べると、麻原彰晃は、「本心」だったのかも知れない。師と弟子とは、性的な側面を排除した「対幻想」で成り立っている。これは強力な「二人称関係」なので、逃れることの難しい呪縛を生む。親鸞と弟子も、「対幻想」という課題を抱えていたことだろう。信仰が「師と弟子」という「対幻想」を基礎にして成り立つ限り、この問題はつねに課題化される。親鸞も、「師」という問題を重視し、いわゆる「善知識」について述べている。「一切梵行の因、無量なりといえども、善知識を説けばすなわちすでに摂尽しぬ」(『教行信証』化身土巻・涅槃経引文)、「善知識を念ずるに、我を生める、父母のごとし、我を養う、乳母のごとし。」(同・華厳経)と。信仰に於ける「師」を「善知識」と言う。「善知識」と出遇えれば、信仰問題のほとんどが片付いたようなものだとも言われる。それほどまでに「善知識」との出遇いは決定的なものだと親鸞も考えていたのだろう。
蓮如と弟子・赤尾の道宗との問答もキワモノだ。
蓮如は、こう言ったという。
「善知識の仰せなりとも成るまじきなんど思うは、大きなるあさましきことなり。なにたる事なりとも、仰せならばなるべきと、存ずべし。(略)しかれば、「「道宗、近江の湖を一人してうめよ」と仰せ候うとも、「畏まりたる」と、申すべく候う。仰せにて候わば、ならぬこと、あるべきか」と」(『蓮如上人御一代記聞書』192)
現代語訳にすると、こうなる。「師の命令であっても、それはできないなどと思うのは、大きなる誤りだ。どんなことでも、師の命令ならば、できないことはないと思え。(略)だから、「道宗よ、琵琶湖を一人で埋めよ」と命じたとき、道宗は、「はい分かりました」と答えたのだ。師の命令であれば、できないことはないのだ」と」。
道宗という人物も、直情径行のひとで、蓮如と似ているところがある。蓮如を絶対的に信頼していたひとであり、蓮如自身もそのことをよく分かっている。そういう「師弟愛」の関係にあったから、このようなエピソードが生まれたのだろう。だから、蓮如も本気で、「琵琶湖を一人で埋めよ」などと命じているわけではない。蓮如が発するどんな命令でも、道宗は否定しないと分かった上での命令である。だから、実際に埋めろなどとは、思っていないのだ。そんなことはどちらでもよいのだ。ただ、「善知識」である蓮如の命令に対して、絶対信順する道宗の「信仰態度」が大事だと言っているだけだ。
しかし、ここには非常に微妙な問題が含まれている。譬喩的に言えば、「親鸞的」になるか、「麻原彰晃的」になるかの瀬戸際である。それは、「被救済者」と「救済原理」がきちんと峻別されているかどうかである。信仰は、必ずひとを介して伝わるものだから、そこに人間的な残滓が生ずる。この残滓がどのように解毒されているかが「〈真実〉のフォルム」に適うかどうかの問題である。つまり、「師弟関係」が「対幻想」という「幻想関係」であり、どこまでいっても、この世に生きていると言えるのは、〈唯一人〉だと覚めることである。
たとえれば、アンデルセンの「裸の王様」で、王様を裸だと見抜いた「子どもの視線」である。いままで豪華な服を着ていると見えていた「大人の視線」とは、「対幻想」が自覚化されず、「師弟愛」に酔っている状態である。師を、豪華な服をまとっている「王様」、つまり、カリスマに見立てた。それが「幻想」であると見抜けたのは、「子どもの視線」である。そこに「王様」と「子ども」が平行に並ぶことができた。平行に、つまり「横並び」になった。
それが、イエスも釈迦も親鸞も、自分と同じように「煩悩に操られている、ただの人間」として、初めて出会い直せる地平である。
またまた、妙好人・庄松を思い出した。庄松が、虫干し法要に向かう途中、道端で小便をした。そのとき同行さんが、「なぜそこへ小便する」と言ったら、庄松は、こう応えた。
「御開山も小便ばったのじゃ、己らも昔は他宗、今は真宗」と。まあ同行さんは、法要へ向かう聖なる空間で、臆面も無く小便をした庄松をなじったのだろう。ところが、「御開山」とは、親鸞聖人のことだが、聖人も俺と同じように小便をしたのだと言い張った。ここに「親鸞聖人」を自己に内面化し、身体化している庄松がいる。自分が小便をすることを通して、そこに「親鸞聖人の小便」を内面で体験している。これが「対幻想」が「幻想」だと覚めた体験である。
「昔は他宗、今は真宗」というのは、こういうことだろう。「他宗」という言葉で暗示されているのは、「聖なる空間と俗なる空間」を分けることだ。同行さんは、法要へ向かう空間を「聖なる空間」と考えていたようだ。だから、「小便」という汚れた排泄物は、「俗なる空間」でするべきだと受け取っている。以前は、庄松も、そういう意味空間に居たのだろう。だから、「昔は他宗」と言っている。しかし、「今は真宗」なのだ。「真宗」とは、この世に、「聖なる空間と俗なる空間」の区別はなく、あらゆる空間、この世全体が「俗なる空間」に包まれることである。
この世を完全に、「俗なる空間」として見出すことができる、その視座を「真宗」という。いままで権威化し、カリスマ化し、超人として仰いでいた「親鸞聖人」を、庄松の内面に、身体化することができたのである。これが、「横並び」の信仰であり、「〈真実〉のフォルム」に適った信仰態度なのである。