一生が「一念」に包まれる。「一念」以外に一生はない。帰るべきところは、「一念」以外にない。この「一念」という仏教語を、現代語に置き直せば〈いま〉である。
人間は〈いま〉以外を生きられない。これは〈真実〉だ。昨日のことを振り返るのも〈いま〉、明日の予定を考えるのも〈いま〉だ。徹底して、〈いま〉しか生きることができない。 だが、この〈いま〉は、振り返られたとき「過去」になる。〈いま〉しか生きられないのも〈真実〉だが、それを振り返るときには、必ず「過去」のこととして振り返る。それは、昨日のことを振り返ることであり、また、ついさっき洗濯物を取り込んだことを振り返ることでもある。このように厳密に〈いま〉を考えると、人間が受け取れる〈いま〉は過去化した〈いま〉でしかない。つまり、人間にとっての「現在」とは、一瞬にして「過去」となった「現在〈いま〉」なのである。
このように〈いま〉を、厳密に考えると。「客観的な過去」も「客観的な未来」も消えてなくなる。消えてなくなる、という言い方は、少し言い過ぎだ。「過去という幻想」、そして「未来という幻想」になると言った方が実感に近い。冷静になってみると、まだこれも言い過ぎだ。「過去という恣意的現実」、「未来という恣意的現実」と言い換えた方が、より実感に近い。「恣意的」とは、ソシュールの用語だが、自分の実感に近い。「恣意的」とは、「幻想」というよりも、「人間的な」という意味になる。「人間のみに実感することのできること」という意味だ。それをなぜ「恣意」という言葉で表すのか。ここに、他の生物に対する敬意と、人間の傲慢さに対する懺悔が含まれている。
あたかも「時間」というものが「客観的」にあり、他の生物もこの「時間」というものを享受し、その中に存在していると、人間が勝手に決め込んでいるからだ。だから、ソシュールは、他の生物に謝っているようだ。「ごめんなさいね。人間だけが考えた『時間』というものの中に、あなたがたを勝手にはめ込み、疑おうともしない。この罪を許してほしいのです」と。ここには徹底して、「時間」というものが、人間だけにしか存在しない「特殊な意味」であることへの自覚がある。他の生物は、人間が考えた「時間」などとは、まったく無関係なところに存在しているのである。だから、死期を間近に控えて、ジタバタとうろたえもせず、じっと眠ったような格好の猫を見たとき、まるで「悟りを開いたお坊さん」のようだと評してしまう。猫は別に、覚りを開いているから、そんな最期を迎えているわけではない。猫には、「時間」もなければ、「死」も存在しないからだ。「時間」と「死」が存在するのは、この人間たちだけの「意味空間」のみだ。
だから「死」が、猫にもあると考える人間は、この人間がねつ造した「人間的な死」を猫に当てはめて評しているだけなのだ。まあ猫から見れば、「ご苦労なこった。それは自業自得だね」と言われてしまう。
猫は我々人間に、問いかけるのだ。いや、それはただの猫ではない。問いかける猫とは、阿弥陀さんが猫をかぶった猫に違いない。本当は、お前達、人間だって「死なないんじゃないのかね」と。誰も、一人称の、つまり、自分の死を体験したひとはいないのだから。どうも「死」は、噂らしいのだ。
そんなことを〈いま〉考えているのだが、考えた途端に、すべては「過去」のことになっている。つまり、純粋な〈いま〉を人間は生きられないという暁光が、そこから漏れてくる。「流れる時間」が破れ、〈無時間〉とでも言うべき暁光が顔を覗かせる。いつでも、どこでも、〈無時間〉が顔を覗かせる。そのためには、「流れる時間」も大切だ。「流れる時間」という「恣意的時間観念」の破れから、〈無時間〉が開かれるのだから。