「念仏」という言葉への嫌悪感

 以前、「念仏」という言葉が嫌いだ、と書いたような気がする。もちろん、その「念仏」とは、私の固定観念としての「念仏」である。だから、それはお前の思い込みであって、「本当の念仏」は、お前の持っている固定観念と違うのだ、という意見もあろう。
 ここに「念仏」という一つの言葉がある。言葉は一つでも、その言葉がもっている意味空間はたくさんある。その中で、私が嫌いだと感じるのは、「念仏」が、「ナンマンダブツと発語すること」と同じ意味となったときの「念仏」だ。つまり、「仏を念ずる」という動詞としての「念仏」だ。動詞としての「念仏」とは、「~する」関心の念仏だ。この「~する」関心が、私に嫌悪感を引き起こすのだろう。
「~する」関心は、「自分がする、自分から起こす」という意味になり、〈存在の零度〉としての、「ある」からズレてしまう。〈真・宗〉は、「いま、ここ、私」という「ある」ところ以外に存在しない。それなのに「~する」と言ってしまうと、「~する」が目指す目的と、「~する」行為そのものがズレてしまう。この「~する」関心が、「念仏」という言葉に出会うと、「念仏する」と受け取ってしまう。「念仏する」と受け取る意味空間は、親鸞の信仰区分で見れば、「第19願」ということになる。それは〈真・宗〉には適っていない。
「第19願」的関心を、私の中に引き起こしてくる「念仏」が嫌いなのだ。「~する」ことで、何事かを「未来」に期待する「念仏」が。これは実に個人的な嫌悪感であることは分かっている。まあ、嫌いであっても、使わざるを得ない場面では、「念仏」という言葉を、渋々使っている。それが「仕事」と呼ばれるものでもあるからだ。
 嫌いを承知で、その「~する念仏」をいただきなおせば、いま自分が口で発語する「ナンマンダブツ」は、今世紀、最初で最後の、いや宇宙開闢の、いままで出会ったことのない「ナンマンダブツ」である。そして、「ナンマンダブツ」と発語され、物理空間としての空気の振動が止まれば、この「ナンマンダブツ」は宇宙終焉の「ナンマンダブツ」として消えていく。真夏の夜に打ち上がる花火と同じだ。一瞬、夜空に花が咲き、一瞬で消えていく。これが「~する念仏」の本質なのだろう。とても微かなものだ。
 だから、「~する」が、「した」に変化してしまえば、あとは「煩悩」の餌食となる。「煩悩」とは「評価」の同義語だ。だから「~する」は、一瞬の行為だ。「煩悩」の餌食になる、一瞬前の動態だ。
 そなんことを言いながらも、私は口をついて「ナンマンダブ」と発語したりしている。そう行為することに、別に意味があるわけではないし、意味を持たせようとも思っていない。口癖のようなものかも知れない。
 どうしようもないことに出会ったときに漏れることもあり、あ~あと、ため息と一緒に漏れるときもある。これが一番多いいな。また、あることがこころに浮かんだときの伴奏曲のようなものでもある。行為が、つねに思いを超えていると直観したときの伴奏曲だ。日常はルーティンとなり、「当たり前」という幻想に包まれる。それが一瞬破れるときがある。そのときに、ふっと口をついて出ることがある。まあ、出るものであって、出すものではない。たとえ、出そうと思って出した「念仏」であっても、その「念仏」は出たものだと頂き直せれば、〈真・宗〉に適う。
 いろいろなことを思うが、私は「念仏」という言葉を使わなければならない場面では、できるだけ〈真・宗〉と置き換えて使うようにしているようだ。「念仏」という言葉には手垢が付きすぎていて、相手にどのように受け取られるか不安になるからだ。それも、「真宗」ではなく、〈真・宗〉と言い換えている。「真宗」も手垢が付いているが、〈真・宗〉は、まだ汚れていない。つまり、人々に意味不明な言葉として問題提起されるからだ。
 人間は贅沢なもので、使い慣れた言葉にときめきを感じなくなる。それでいつも新しい言葉を欲望し模索する。これは表層のことではなく、人間の深奥からやってくる欲なのかも知れない。〈真・宗〉は、つねに「いまから、ここから、私から」始発するものだからだ。