アバンギャルド仏教

「覚りを求めることが煩悩である」。このようなことを言ってしまえば、「仏教」は崩壊する。「一般的通念としての仏教」は、「覚りを求めることは、清い菩提心の表れであり、よいこと」として考えてきた。菩提心を起こさなければ、何も始まらないと。
 だから、この表現は、「非常識」な「アバンギャルド仏教」の表現だ。それでも、唯識思想の中では、この問題に気づいている部分もあった。それが、『成唯識論述記』だ。これは、護法菩薩の『成唯識論』を解釈した書だ。この本の解説書である、城福雅伸著、『現代語訳◎講義 成唯識論』巻第六(全十巻)春秋社、2007年12月20日発行)には次の記述がある。
「大乗(法相唯識(ほっそうゆいしき))の説く所は、仏を愛し滅(涅槃)を貪るのもすべて汚染(わぜん)である。」と明確に述べている。(略)貪る対象がたとえ仏や涅槃や無漏法(むろほう)であっても汚染性を発生させ輪廻を招く原因となるのである。法相唯識は正義や善、真理を愛し貪り執着(しゅうじゃく)することは、善いことである、正しいことであるという立場と厳然と一線を画すのである。(略)仏や涅槃、無漏法もそれを貪れば汚染性を引き起こすことになると明確に述べているのである。」
 この、「貪る対象がたとえ仏や涅槃や無漏法(むろほう)であっても汚染性を発生させ輪廻を招く原因となるのである。」というところに唯識の見識のすごさを感じる。しかし、我々が仏教思想に興味をもったり、覚りを欲しがるこころが起こらなければ、仏教の真髄には触れ得ないのではないか。もし仏教に興味を持たなかったら、仏教など有っても無きに等しいのではないか。
 こう考えると、我々が仏教に近づくことは不可能だと思える。我々が仏教に興味をいだいたり、覚りを求めたいと思う関心が「煩悩」であれば、真っ黒に汚れた手で純白の布を掴むようなものだ。だから、どこまで覚りを求めても、それは常に汚れた覚りしか手に入らない。
 この矛盾をどう解決するか。それを唯識では、「貪は不善のものと有覆無記(うふくむき)のものがある、あるいは不善の場合と有覆無記の場合があるということである。これはどういうことかといえば欲界では貪の三性(さんしょう)は不善(悪)なのであるが、色界(しっかい)・無色界(むしっかい)といった上二界では定(禅定(ぜんじょう))の力によって伏されて有覆無記になるからである。」と述べている。
 まず、「貪欲」という煩悩も、「不善」のものと「有覆無記」とがあると分析する。「不善」とは、まったく見込みのないものだから、「不可能」という意味だろう。人間からは接近することが「不可能」ということになる。だが、「有覆無記」は、まだ救いようがあるという意味だ。「有覆無記」とは、「無記に覆いが有る。覆われている無記」という意味だ。「無記」とは、〈真実〉のことだから、〈真実〉が煩悩で覆われている状態のことを「有覆無記」という。
 それで、我々が住んでいる「欲界」では、「貪欲」は「不善(悪)」のままだが、禅定の力によって「色界・無色界」に入れば、「不善」が「有覆無記」に変わると考えるらしい。
こうでも言わなければ、我々が仏教に関心を持ち、覚りを求めるなどということは起こらないと考えるのだろう。「有覆無記」という言葉を作り出したことが面白い。〈真実〉、つまり「無記」を抱えている、あるいは〈真実〉と接している、しかし、それは「覆われている」と考えた。「覆われている」ということは、煩悩によって覆われているという意味だろう。だから、その覆っている煩悩を禅定により滅却することによって、「覆いのない〈真実〉」、つまり、「無覆無記」に到り着くと考えるのだろう。こう考えるならば、やはり唯識思想は、「~する」関心から脱してはいない。
 それにしても、仏教に関心を持ったり、覚りを求めたいという気持ちはどこからやってくるのだろうか。いままでの自分とは違った「自分」を手に入れたいと思うことは、「貪欲」に違いないのだが、それは快楽や損得を求める欲とは異質のものでもある。
『仏説無量寿経』では、法蔵菩薩が、「願我作仏 斉聖法王(願わくは我作仏して、聖法の王と齊しからん)」と告白している。もし願いが叶うならば、私は、あの法王と同じようになりたいと、法蔵菩薩が表白する。つまり、あの法王と同じような覚りを開きたいと願ったと書かれている。しかし、なぜ、あの法王と同じように成りたいと願ったのだろうか。これも「貪欲」の求める覚りには違いないのだろうが、それだけなのだろうか。
 覚りを獲るまでには、まだ覚りを獲ていないのだから、その覚りとはいったいどういうことなのかは、その段階では分からないはずだ。分からないにも関わらず、それを求めたいという願いはどこから起こるのだろうか。たとえ、それが「変身願望」という煩悩であったとしても、やはり求めざるを得ないものがあるのだろう。
 そのように考えると、我々がなぜ仏教に関心をもち、覚りを求めたいと思うのか、その淵源は自分にも分からないところにあるのだろう。それは自分をも超越したところから促されてくるとしか言いようのないものなのだろう。
 自分から見れば、それは「貪欲」という煩悩と見えるのだが、その「貪欲」を使ってまで求めさせる何かがあるのだろう。これを親鸞は「衆生の貪瞋煩悩の中に、よく清浄願往生の心を生ぜしむる」(『教行信証』信巻)と見たのかも知れない。貪欲・瞋恚の煩悩の中にあっても、さらにそれを食い破って希求させる何か。つまり、「往生を願う心」があると見たのだろう。
 親鸞自身は、浄土へ往生したいなどというこころは一つもない、「恥ずべし、傷むべし」(『教行信証』信巻)とも告白する。それらはすべて煩悩であって、菩提心ではないと。たとえそれが分かっていても、求めざるを得なかった。そして「~する」という聖道門的体質に絶望した。その「~する」は、自分を行為の始発基点とする発想である。「自分がすることで、将来に何かを得る」という発想になる。しかし、「~する」は、どうしても、「しない」と対立する。何かをしていなければ、意味が保てないような発想になる。つまり、つねに仏道を求めていなければ満たされない。それでは自分を行為の基点に据え、来たるべき将来に何かを得るという目的論的発想になってしまう。
 それは、求めている限り得られないのであって、一生、満足することがない「求め」である。あるとき、この流れが止まったのだ。親鸞は、求めることそのことが、〈いま〉を拒否する発想であることに気づいた。〈いま〉に不満を感じるから、未来に満足を求めようとするからだ。
 その陥穽に気づいたとき、「~する」という聖道門的体質に死んだ。将来に、覚りを求めるような仏教は死んだのだ。「将来」ということが死ぬと、逆に、いままで足蹴にしていた、〈いま〉が復活してくる。これが「アバンギャルド仏教」だ。
 アバンギャルド仏教は、こう言う。「どうしたら覚りを開くことができますか」という質問を受けたら、「何もするな」と応ずる。お前は、もうすでに覚りの中にあるのだと、応答する。どこかに、あるいは、将来に覚りを求めても、それは決して達成できない。それは、その発想そのものが、〈いま〉を拒絶するからだ。だから、この発想を撤回する以外にない。〈いま〉にあらゆる完成が成り立っているのだ。よって、どこかに行く必要もなく、覚りを求める必要もない。それが、アバンギャルド仏教が見る〈いま〉である。
 小生が、師匠に向かって、「どうしたら信心を獲ることができますか」と尋ねたとき、師匠が、「何もせんでええんです」と答えた、その答え方がアバンギャルド仏教だ。
それは、「どうしたら」という発想が、〈いま〉を殺し、将来に何かを求めようとする発想であることを教えている。アバンギャルド仏教が言う〈いま〉とは、白昼の死角であり、盲点である。だから、「常識」で考える「いま」ではない。
 人間は、アバンギャルド仏教の言う〈いま〉しか生きてはいない。とことん人間は、「過去」と「未来」に引き裂かれた存在だと思わされる。人間が、少しでも「時間」というものを意識したら、その途端に引き裂かれる。「過去」は、「後悔・自惚れ・思い出」へ引き裂かれ、「未来」は、「不安・希望・予定」へと引き裂かれる。
 アバンギャルド仏教の言う〈いま〉とは、「阿弥陀さん」からいただく〈いま〉なのだ。だから、人間が決していただくことのできない、〈いま〉なのだ。決していただくことができないので、そして、決していただくことができないからこそ、〈いま〉を与えようと迫ってくる。「~する」という関心しかない人間に向かって、もうすでに「されている」のだと訴えてくる。何億年も前から、すでに「されてきた」ではないか。何を今更、「されている」などと、ことさらに言う必要があるのか。「他力」とは、呑気な言葉ではなく、凄まじいまでに、「『いま』を知っている」という固定観念を食い破ってくるアバンギャルド思想だっだのだ。