仏とは「ごく普通の人間」のこと

仏法に出遇うことがなければ、自分は生きる屍となっていた。21歳のときの自分は屍だった。それから仏法という教えに出遇い、少しずつ「人間」になることができた。いままで屍だった自分を、少しずつ「人間」として育てて下さったのが、仏法だ。
 生きる屍とは、人生に意味を失った状態のことだ。マルキシズムの微かな味を嗅いでいた青春時代に挫折し、それからは「生きる意味」など求めないで生きようと決意した。それが屍の誕生だ。「生きる意味」などに色目を使わず、そっぽを向いて、ただ喰って稼いで排泄して寝るという、単純な生活に徹しようとした。周りには、私と同じような屍が、累々として、あった。しかし、仏法に出遇ってからというもの、もう一度、「人間」として生きてみたいと思うようになった。だから、21歳が再誕の歳だ。
 それから、私のこころは歳を取ってはいない。肉体は衰えても、こころは衰えない。いつまでも、若い頃のままだ。今年で71歳になるが、こころは21歳とほぼ変わらない。だから、鏡を見なければ、自分は21歳のこころのままだ。時々、鏡を見れば、老いぼれた自分の顔が、そこにあるだけだ。でも、鏡を見ていないときは、そんなことは忘れて21歳のままでいる。
 仏法に出遇ってよかったと思うことは、ごく当たり前の「人間」に成れたことだ。その「人間」とは、「全人類を代表する自分」という意味だ。仏法に出遇う前は、自分は「人間」の中の特殊な存在とだけ思っていた。だから、何をしても、何を考えても、それは自分だけのことで、他人とは無関係のことだと思っていた。ひとから劣った自分を見つけては、劣等感に苛まれていた。それは自分が、「人間」という「普遍的な器」になることを拒否していたのだなと思う。
 いまは、自分を、「人間」というものが表われてくる「器」だと思っているので、自分が何を思おうと、何をしようと、それは人類の代表として行なっているのだと思えるようになった。だから、自分が何を思おうと、何をしようと、決して恥ずかしいことでもなんでもない。「人間」であれば、誰でもそう思い、そうするのだ。ただ、それを自分が全人類の代わりに、人類の代表としておこなっているだけなのだ。
 だから、自分は「器」になった。
 それが嬉しいと思うのだ。嬉しいというよりも、楽になった。
 仏法とは、「仏」に成る教えだと思っていたが、そうではなかった。ごく普通の人間に成ることのできる教えだった。もっと言えば、その「仏」とは、ごく「普通の人間」のことなのかも知れない。そもそも、「仏」など、誰も成ったことがないのだから、それは誰にも分からないことだ。だから、「仏」とは何かなど誰にも分からない。ただ、「仏」という言葉に憧れを感じ、それを生きる目標として目指している人間がいるだけの話だ。
 だから、ごく「普通の人間」が「仏」だと言っても、何ら差し障りがない。その正体を見たひとがいないのだから。まさかこんなカラクリがあったとは、まったく気づかなかった。