「二人称言語」と「非感情」

「仏教」とか「仏道」というと、もう既に分かったもののように感じてしまうが、本当に、それは分かったものなのだろうか。まず「仏教」とは、一般的に「仏が説かれた教え」、あるいは「仏に成る教え」などと解説される。しかし、その「仏」とは何かが分からない。
 もともと、「仏」とは、「佛陀」の略語であり、サンスクリット語の「Buddha」の音訳であり、漢字の「仏」には意味がない。漢字の意味ではなくて、発音にのみ意味がある。それでは、もともとの「Buddha」とはどういう意味かと言えば、「さとれる者。(真理に)目覚めた人。完全な人格者。絶対の理をさとって理となった人。師のこと。尊敬さるべき人のこと。自ら真理をさとり、他人をさとらせ、さとりのはたらきがきわまり満ちた究極の覚者」(中村元『仏教語大辞典』)とある。 
 いろいろな定義で、その意味を言い当てようとしているのだが、隔靴掻痒ではなかろうか。それはいろいろな言葉で言い当てようとしても、決して言い当てることができない構造を、もともと持っている言葉だからではなかろうか。
 つまり、「仏」とは何かということは、「客観的」に定義できないものであり、あくまで、「自己」と「対象」との間においてのみ意味を持つ言葉だからだ。
 私が、二千五百年前のインドに生れていたとして、傍を「お釈迦様」が通りかかったとして、周りの人から、「あのひとが佛陀なのだ」と言われても、「お釈迦様」とは見えても、自分は「佛陀」とは見えなかったかも知れない。「お釈迦様」とは、「シャカ族の王子」という「客観的」立場だが、そのひとが、「真理に目覚めたひと」とは見えなかったに違いない。
 それはいくら周りのひとから、「あのかたは仏だ」と言われても、「自己」と「対象(ひと)」との間で、その「意味」が成り立たなければ、「意味」をなさない言葉なのだ。あくまで「仏教」は「如是我聞」が鉄則だから、「対象」を、「その通りと我が受け止めなければ成り立たない」のだ。つまり、「仏」とは「二人称言語」である。
 親鸞も「仏」という言葉を、『教行信証』において、200回以上用いている。『真宗聖典』初版で検索すると214回、第二版では247回となっている。なぜ、回数が異なるのかについては、まだ追及していない。(どなたか調べて下さい)しかし、200回以上用いているということは、親鸞にとって「仏」ということの意味がはっきりしていたということだろうか。
 これは詮索だが、親鸞の中でも「仏」という言葉の意味が多種多様、つまり、多面的な意味を示す言葉であり、文脈によって違った意味として受け止めていたのではなかろうか。これを考えるヒントが、河合隼雄さんの「イメージ言語」という言葉だ。
少し長くなるが、『イメージの心理学』(青土社)から引用してみたい。
「ユングはフロイトによる精神分析よりも、もっとイメージのもつ生命力の方に注目し、その心理学において、イメージのもつ特性をできるかぎり残そうとした、と言うことができる。彼はイメージは生命力をもつが明確さに欠け、概念の方は明確ではあるが生命力に欠ける、という意味のことを述べている。このことは極めて重要なことである。
 今まで一般に知られている言葉にアイデンティティという用語がある。アメリカの精神分析家のエリク・エリクソンが提唱した言葉であるが、それは多くの人の心を惹きつけて、一種の流行語のようになった。「あの人はまだアイデンティティが確立していない」とか、「今まで人生を無駄にしてきたように思ったが、それはアイデンティティ確立のための模索だったのだ」などと言うときに使われ、それは人を「なるほど」と納得させるものがある。一般にもよく使われてくると、学者としてはそれに惑わされず、「概念規定を明確にしなくてはならない」と思う。そして、実際に多くの学者がそれなりに努力して、いろいろと定義を試みる。しかし、「明確な」定義ができあがってしまった途端に、アイデンティティという言葉が魅力を失ってしまう。なんだそんなことか、という感じになってくる。これはいったいどうしてだろうか。
 アイデンティティという言葉も、「私の心理学」の用語である。それは研究の主体も対象も「私」であるという状況のなかで、私の体験を焦点化するのに極めて好都合な用語として提出されているので、そのような「体験」抜きにしてその本質を把むことはできない。ところが、これまでの科学や学問の伝統のなかで、「概念の明確化」を行なおうとするためには、むしろ「私の体験」を抹殺して作業を行なうことになるので、用語のもつ魅力が消え去ってしまうのである。筆者はこのような用語を「イメージ言語」と呼ぶといいのではないかと思っている。「私の心理学」を語る言語はイメージ言語に満ちている。」
 ここで語られていることは、まさに「如是我聞」の「仏教」と共鳴する。河合さんは「心理学」は「客観的な心理学」ではなく、「私の心理学」こそ「真の心理学」だと主張する。これを借用すれば、「私の仏教」こそが、「真の仏教」ということになるだろう。つまり、どこかに「仏教」という抽象的な教理体系があるわけではなく、「いま、ここに生きている私」の実感としてなければ、「仏教」などはどこにもないということだ。
 それはそれとして、「仏」という言葉も、河合さんの言われる「アイデンティティ」という用語と同じように「イメージ言語」ではなかろうか。つまり、「仏」という言葉が「実感」を伴ってはたらく場面では、つまり「イメージ」としてはたらくときには「生命力」をもっているが、それを知的に、「概念」とした途端に、「生命力」を失ってしまうのだ。だから、「仏」という言葉そのものが、明確な「概念規定」を拒否する言葉なのだろう。特に、「真宗」では、「阿弥陀仏」という用語を使うのだが、これは、そもそもが「概念規定を拒否する」という意味だから、どれほど、人間が「概念規定」をしようとも、それを規定しようとする指の間から、「阿弥陀仏」は漏れていってしまう。
 それだからと言って、「概念規定」をやめられるかと言えば、それもできない。人間は「明確さ」の欠けた「イメージ」には耐えられないので、何とかそれを知的に、「概念」化しなければと欲求する。もっと言えば、「概念」とは「言葉化」である。
 そこで親鸞は、『教行信証』(証巻)で、こう書いている。
「法性法身に由って方便法身を生ず。方便法身に由って法性法身を出だす。この二つの法身は、異にして分かつべからず。一にして同じかるべからず。」と。これは曇鸞の『浄土論註』の引用だが、この文章の直接の解説ではないが、この意味を補完するような文章を『唯信鈔文意』に述べている。
「法性すなわち法身なり。法身は、いろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず。ことばもたえたり。この一如よりかたちをあらわして、方便法身ともうす御すがたをしめして、法蔵比丘となのりたまいて、不可思議の大誓願をおこして、あらわれたまう御かたちをば、世親菩薩は、尽十方無碍光如来となづけたてまつりたまえり。」と。
 この「法性法身」とは、「意味」であり、「方便法身」とは「言葉」である。だから、「意味」と「言葉」とは同じという側面があり、また違うという側面もある。この二つを混同するなと言っている。それを丁寧に、『唯信鈔文意』では、「意味」は「ことばもたえ」ているけれども、「こころもおよばれず」と言う。「意味」は、「いろもなし、かたちもましままさず」までは納得できよう。「意味」は、「文字」や「発音」や「行為」を超えていて、それらを香りづけ、人間のこころを動かす何かだ。しかし、「しかれば、こころもおよばれず」は、どうだろうか。我々は、「意味」は「こころ」にあると思っているので、「こころもおよばれず」が理解できない。
 そこを深掘りすれば、この「こころもおよばれず」の示すところは、どれほど「言葉化」しようとも、またどれほど「概念規定」しようとも、それでは決して表現することはできないということだろう。ただ、そのように表現することも「概念規定」になってしまう。人間の思いを超えているということも、人間の「言葉」で表現しなければ、人間には伝わらない。
 親鸞は、そのことを知っていて「義なきを義とすということは、なお義のあるべし。」(「自然法爾」)と述べる。「義」とは、「概念規定」するということだ。ところが、それを否定すること自体も、また「概念規定した言葉」で表現しなければならない。だから、やはり「なお義のあるべし」となってしまうのだ。親鸞は、「阿弥陀如来」の「意味」を「言語」でなんとか表現しようとした。それは「概念規定」である。しかし、「概念規定」をすればするほど、それは「義なきを義とす」となってしまい、それは「義」の、つまり知のレベルに還元されてしまうのだ。
 そのジレンマがあったためか、その「自然法爾」の文章の後に、この和讃を置いている。
「よしあしの文字をもしらぬひとはみな まことのこころなりけるを 善悪の字しりがおは おおそらごとのかたちなり」と。「善悪の字しりがお」とは、「知のレベル」を言っている。つまり、どれほど、「真宗こそが〈真実〉だ」と主張したとしても、それは「知のレベル」のことであって、人間の深奥とはズレていってしまうのだと。だからと言って、「概念規定」をやめられるかと言えば、それはできない。なぜなら、〈真・宗〉は無限の表現(概念規定)を促してくる動態だからだ。つまり、「意味」をどれほど、「言葉」を用いて「概念規定」しようとしても、それは絶対に「意味」を表現したことにはならないのだ。たとえそうであっても、自分は「概念規定」をしたいし、それしかできない存在なのだという、悲嘆がある。
 もちろん、「概念規定」することが、人々のなにがしかの利益につながるなどという甘い思いなど吹っ飛んでしまっている。そこに「他者」という意識は介入してこないし、させれば嘘になる。ただ、それをすることだけができることであり、それしかすることができないという「軽妙な悲嘆」があるだけだ。
「義なきを義とすということは、なお義のあるべし。」と親鸞が書いたときの、「なお」がその悲嘆を暗示しているように感じる。「義なきを義とす」ということは真理だし、それ以外にはない。しかし、それは真理なのだが、それであっても、自分は「なお義」を表現する「知のレベル」に堕してしまうし、それしかできないのだといううつむきである。
 親鸞が、自分の生き様を、これこそが「在家仏教」だと自己主張しなかったのは、その「うつむき」があったからだろう。だから、どの場面を切り取ってみても、自己肯定という慰撫は、削ぎ落とされている。〈真・宗〉とは、永遠に「自己肯定」を許さない教えであり、それだけが、信仰の新鮮さを確保する防波堤である。だから、生活形態は変幻自在であり、固定することもできない。 
 話が、とんでもないところへ行ってしまったような気がする。
 しかし、これは実に単純なことを言おうとしているだけなのだ。
「意味」は「言葉」を超えているという、この単純なことを言おうとしているだけなのだ。
私たちは、「言葉」を使って考え、コミュニケーションしてきたのだが、それはある種の「曖昧」な「イメージ」として使ってきたのだろう。だから、ある場面では、その「曖昧さ」に耐えられなくなり、私たちは、「辞書」を引く。「辞書」を引いて、言葉の「意味」を調べる。「事物」であれば、「意味」はある程度は明確になるのだが、人間のこころの表現などはどうだろうか。
 たとえば、「むなし・い」を『広辞苑』(第七版)で調べると、「①そこに物がない。からである。②内容がない。充実していない。③事実がない。あとかたがない。④はかない。かりそめである。⑤この世にいない。死んだ。⑥無益である。むだである。⑦欲がない。恬淡である。」と書かれている。しかし、ここには「言葉」の解説が書かれているだけであり、どこにも「意味」は書かれていない。だから、この解説を読んでも、「意味が分からない」ということが起こる。「言葉」は紙の上に記すことはできても、「意味」は記すことができなからだ。それでは「意味」はどこにあるのか、と問えば、それは目で見ることのできない、ひとの「こころ」に引き起こされる何かなのである。もっと言えば、「文字」と「こころ」の間に立ち現れる「イメージ」なのである。
 河合さんの「イメージ言語」という言葉をきっかけに考えてきたが、それは何も特定の心理学や仏教ばかりではなく、私たちが普段使っている「言葉」そのものの本質を射貫いた言葉だとも言い得るのではないか。
 特に仏教は、「イメージ言語」で表現された体系ではないか。だから、当初の「仏」という言葉も、様々なイメージで受け止めてよいのだ。「亡くなられたひとを仏」と呼んでもよいし、「我々を救うはたらきを仏」と呼んでもよい。「永遠なる不可知」と言ってもいいだろう。
「仏」とは「二人称言語」なので、そのひとが何を「仏」と考え実感しているか。その臨機応変な「意味場」においてのみ成り立つ言葉なのだ。だから、あるひとが、「偉大な○○先生こそ、仏なのだ」と表現したならば、それはそのひと自身の内面において、その先生を「仏」と仰いでいるということを語っているだけで、「仏」とは何かということを、「客観的に」語っているわけではない。
 それでは、いまの私はどう思っているかと言えば、それは、「私に〈真実〉への目覚めをひきおこす作用(ひと)」、と表現してみたい。たとえば、「ひとはいつまでも生きる」と思っているのは固定観念であり、〈真実〉ではない。〈真実〉は、「誕生が死の根本原因であり、死の可能性は次の一瞬にある」と教え、〈真実〉目覚めさせる。また、「この世界は一つであって、その中にあらゆる生き物は存在する」というのは固定観念であって、〈真実〉ではない。生も死も、一人の上にしか起こらない現象だから、〈真実〉は、一人が一つの世界を生きているのであり、一人が一つの世界、つまり「〈一人一世界〉」が〈真実〉であると目覚めさせる。
 こういうように、固定観念を暴き出し対象化させてくれる作用こそが「仏」である。「お釈迦様」も、この作用に触発されたひとだろうし、親鸞も、そして私においてもだ。このように受け止めると、それはいままでの仏教概念で言えば、「仏」ではなく、「法dharma」に相当すると言われそうだ。「仏」が極めて「人間像」のイメージと結びついて考えられてきたので、それもやむを得ない。それは現代まで、「仏像」という彫刻物がたくさん残っているからかも知れない。
 まあ「お釈迦様」の生きていた時代には、「人間像」をとった仏像がなかったとか、あるいは、仏教以前にあったバラモン教には、すで「人間像」を模した「神像」があったとか、こういう議論もある。しかし、「お釈迦様」を当時の民衆は、「人間像」として彫らず、「菩提樹・法輪・仏足石」などとして残した。そこには、「仏」とは、人間的なものを超えている「法dharma」そのものだという認識があったからではなかろうか。
 まあ、この「人間像」というイメージを超えさせるものとして、〈真・宗〉では、「阿弥陀」という「仏」のイメージを使うのだろう。まあこれも仏教概念で言えば、「法身・報身・応化身」と「三身」説で語ってきたところである。
「法身」とは人間の意識を超えているイメージ、「報身」とは、意識を超えている「法身」が、人間に知覚される作用をもったイメージ、「応化身」とは、意識を超えている「法身」が、それこそ人間となって表われたイメージである。「応化身」の代表格が「お釈迦様」である。
 もちろん「三身」のうちの「法身」が中核である。これを暗示するエピソードを「庄松」が語っている。これはある寺の住職が、庄松に向かって「吾が御堂の御本尊は、生きて御座ろうか」という問いが発端である。それに対して、庄松は「生きとる生きとる」と応えた。それに対して住職が、「生きてあらっしゃっても物を言わぬでないか」と詰め寄ると、庄松は「御本尊様が物を仰せられたら、お前等は一時もここに生きておられぬ」と応えた。ここに、「阿弥陀仏」が「法身」であると、「実感」している庄松が、見事に表われている。住職と庄松のイメージしている「阿弥陀さん」との差異が綺麗に浮き彫りにされている。
 庄松にとっての、「阿弥陀さん」は、意識を超えているものであるが、住職は娑婆、つまり相対世界で考えている。住職は「常識」、庄松は「非常識」である。「常識」は、「非常識」を批判する。意識でしか物事を考えることのできない人間が、どうして意識を超えた物を知ることができるのか、と。
 しかし、それは「意識」と「超越識」とを並べておいて、「意識」をもっているものが「超越識」を知ることができないと言っているわけではない。我々の「意識」は、相対的に判断するので、A(意識)、B(超越識)と並列に並べて考えてしまう。並列に並べてしまえば、それを俯瞰する第三の視座が生れてしまう。その視座が、そのような問いを問うのである。だから、並列的に並ぶものが「超越識」ではない。ただ「意識」の限界の壁を知っているというだけの話だ。
「常識」である「意識」は、壁を持ってはいない。だからなんでも考えられると、傲慢にも思っている。しかし、〈真・宗〉は意識の壁を知っている。
「意識」の限界の壁の向こう側はどうなっているのか。そんなことは知らない。それを「浄土」だとか、「無量光明土」だと親鸞は言うけれども、それは、どこまでも壁の内側の手触りを述べているに過ぎない。庄松は、壁があるのだぞと、住職に言っている。
しかし、それを庄松が、「生きとる生きとる」と応えたところが、また面白いところだ。
この「生きとる生きとる」は、「意識」がなんでも考えられると思っている、その傲慢を、バッサリと切り落とす力のことである。庄松であっても、「常識」を抱えている存在だから、どうしても「意識」で壁すら考えることもできる。この世に存在する壁は、必ず向こう側があるからだ。向こう側のない壁は壁とは言わない。しかし、庄松は、その壁の向こうでは人間は一時も生きられないと言っている。そこは、「意識」が届かない場所だから。この「意識」が届かないということが、絶望ではなく、希望なのだと言いたいのだ。
手の届きそうなものに手が届かなければ絶望であるが、もともと手の届かないものなのだから、それは希望である。
 変なたとえだが、嫉妬は、手の届きそうな存在に対して起こる感情だそうだ。自分と同等か、それより少し上の存在に対して起こす。しかし、まったく手の届きそうにない存在に対しては起こらない。同僚が、自分と同程度の仕事しかしていないのに、自分より給料がよいなどと言うときには、嫉妬が起こる。しかし、社長に対しては嫉妬は起きない。自分の手の届きそうにない存在に対しては、羨望か、ある種のアパシーが起こる。アパシーとは、「無力感」などの意味があるが、それは「非感情」である。
庄松の言う、「生きとる生きとる」は、この「非感情」の世界ではなかろうか。「感情」とは、「煩悩」だから、「煩わされ悩まされる」ものだが、「非感情」は、それらの波風が静まった状態だから、まあ「救いの感情」であろう。
 それは「煩悩」によって、煩わされ悩まされなくなったという意味ではない。相変わらず、煩わされ悩まされているのだが、「非感情」が根底にあって、その上で、煩わされ悩まされているのだ。だから、「非感情」からすれば、また相も変わらず、煩わされ悩まされておるわいと、眺める余裕が生れる。「煩悩」に振り回されて苦しむのではなく、振り回されてあげている、とでも言えようか。
 ずいぶん、だらだらと「仏」について考えてきたが、今回の収穫は、「二人称言語」と、「非感情」という言葉を回向されたことだ。やはり、〈真・宗〉は、常に創造的だ。「意識」は、いつでも、「もう済んだ」と「既知の戸棚」にすべてを仕舞い込もうとするのだが、〈真・宗〉は、常に「まだ始まってはいないのだ」と、その戸棚を解体する。