「易行」こそが「難行」だったとは

「易行」という言葉を見た途端に、「易しい修行という行為」と受け取ってしまう。そのように受け取ったところに、すでに答えが隠れている。これも私が常々言っていることだが、「問いの中に答えあり」だ。その「問い」の中に、すでに「答え」が用意されている。「問い」の外に答えがある訳ではない。自分から発せられた、気ままな「問い」の中に、すでに「答え」があるのだ。
「易行」を、「易しい修行という行為」と受け取ってしまう感性は、「易しい・難しい」という欲界の意味空間だ。だから、「易行」と聞くと、何だか近寄ってみたくなる。「難行」は嫌いだが、「易行」ならば、近寄ってみたいと思う。そう反応する感性は「欲」である。つまり、人間は楽をして利益を欲しがるもの、ということだ。まあその反対に、安易なことで得られたものは有り難くない。やはり、人間は苦労して得たものに喜びを感じる生き物だというひともいる。
 なので、「真宗は『易行』などといい加減なことを言って人間を騙す宗教だ」という反応も起こる。あるいは、「真宗は『難行』をせずに易行で往生できるんだから、易しい修行でよかったね」という反応も起こる。やはり、「『難行』は誰もができるものでないから、易行じゃなくては、『平等の救い』は成り立たないよね」とも言う。さらに、「聖道門の方々は、『難行』ができるけれども、我々凡夫は、そんな能力もないから『易行』でよかったね」という反応すら起こる。それらの反応は、すべて「欲界」での話であって、信仰の話ではない。「欲界」の話とは、「出来る、出来ない」という意味空間での話という意味だ。
 その意味空間にいるから、「易行」の対概念である「難行」をディフィカルト(困難)と受け止めてしまう。つまり、「達成することが困難な難しさ」と受け取る。これも「出来る、出来ない」という意味空間に住んでいるひとの受け止めである。
 しかし、親鸞の考えていたであろう「易行」とは、ほんの少しでも努力をして達成しようと考えたら達成できない行なのだ。だから、「安易な行為、簡便な行為、容易な行為」という意味では、まったくない。さあこれから、努力して、将来に何かを得ようと考えたら、もうそれは、「易行」ではなく、「難行」になってしまっているのだ。
「さあ、これから」という発想そのものが、「難行」なのだ。だから、人間には決して手の届かないものである。
「欲界」で、「難行」を翻訳すれば、それはディフィカルト(困難)であるし、「易行」はイージー(容易)であろう。しかし、信仰の世界で「難行」を翻訳すれば、インポッシブル(不可能)であり、反対の「易行」もインポッシブルと訳される。信仰の世界では、「易行」も「難行」も同じ意味に還元されてしまう。
 もっと丁寧に言えば、「易行」だから「易しい修行」だと誤解して近づいてみたものの、実際、「易行」を行なおうとすると、これが「難しい」。例えば、「易行」を「口称念仏」と考えれば、「称える」ことは、簡単そうに見えるけれども、「常に」口で称えていなければ、「口称念仏」ではないから、これが難しい。念仏と念仏との間に、時間差が生れてしまえば、それは〈真実〉の「口称念仏」とは言えないからだ。
「口称念仏」は「易しそう」に見えるけれども、目が覚めて、さあ念仏するぞと意図した途端に、「私がする」という意識が生れる。「私がして、来たるべき将来に、何事かを得ようと企図する」という姿が現れる。これは富士山の山頂を目指して登るための一歩と同じだ。この一歩がなければ、決して頂上へは至らない。しかし、頂上を目指そうとすれば、それは「難行」となってしまう。「いやいや、自分はただこの一歩を踏み出しているだけで、決して頂上などへ到り着こうなどと、大それたことは思っていません」と告白したとしても、この「一歩」が「頂上を目の前にした一歩」と同質になっているのだ。つまり、朝、目が覚めて、「さあ、これから念仏するぞ」と意図した途端に、その「易行」は「難行」に変質してしまうのだ。
 この構造に気づいてしまうと、「一歩」が踏み出せなくなる。そして「行き詰まる」。
 こうなってくると、人間には成り立ちようのないものが、「易行」であり、まさに「易行」こそが「難行」であったのかと知らされる。それは、つまり、「~する」という意味空間では歯が立たないという意味だ。この「~する」という関心では、まったく不可能(インポッシブル)なものが〈真・宗〉である。
「~する」という関心で考えれば、「~する」がONの状態であり、「していない」はOFFの状態となる。信仰とは、何かをし続けることだと考える限り、「~する」をONの状態にしておかなければならない。ここに徹底してこだわったのが、親鸞ではないか。
 そして、実際にやってみて、ONの状態を保つことが不可能(インポッシブル)だと判明した。実は、インポッシブルが「救い」なのだ。
 この不可能に目覚めると、いままで見えていなかった「いま・ここ・私」が回復してくる。それは「ある」ということが回復するのだ。「~する」は、どうしても、「いま・ここ・私」の否定から出発する。「努力は大事だ」という言い方も、ある場面には有効だが、一生涯を貫くことはできない。どうしても、「いま・ここ・私」を回復したいという欲求が、我々の深層には潜んでいるからだ。
 そして、「いま・ここ・私」という「ある」が成り立ったとなれば、次には、「ある」を支えている世界が見えてくる。それが「されている」世界である。この一連の流れを、親鸞は19願→20願→18願の深化と受け止めたのかも知れない。「~する」が19願、「ある」が20願、「されている」が18願だ。
 たとえ、18願が開かれたとしても、人間は、「する」生き物だ。人生は多種多様な「行為」の連続だとも言える。そうすると、人間は「する」をやめることはできない。ただ、その「する」の質が、「水平のベクトル」から「垂直のベクトル」へと変化するのではないか。
「水平のベクトル」とは、「欲」の延長という意味であり、「垂直のベクトル」とは、〈永遠〉との対話である。
 親鸞は、「仏意惻り難し」とインポッシブルに目覚めて、「する」に破れた。しかし、そこから再び水平へ戻るのではなく、垂直へと深化して、「しかりといえども竊かにこの心を推するに」と対話し続けた。これこそ〈永遠〉との対話である。
 この対話は、「通時的時間」を超えているから、「いつまで」という区切りがない。一瞬に起こることであり、一瞬にすべてが包まれるような「一瞬」である。いつまでも続くようにも見えるが、「一瞬」にすべてが終わっているようでもある。そうそう、だから「人間の時間」を超えた時間が開かれると言ってもよい。
 これは私の大好きな妙好人・讃岐の庄松さんの話だ。(『庄松ありのままの記』)
 庄松が同行と一緒に、寺の本堂で坊さんの話を聴聞してる時のエピソードである。しばらく聴聞の時間が続き、休憩の時間になったのだろう。同行たちが、坊さんの説法が難しいので、それを解説してくれと庄松にせがんだ。そのとき庄松は、「己らはそんなこと知らぬ、何のあるだけは、今夜食いたいと思うてオジヤをたいてあるが、猫が食わにゃよいが、説教が早うすめばよいがと思うているだけじゃ」と応えた。それを聞いた同行たちは、「大いに恥じいりたり」と書かれている。
 つまり、庄松の口から、「高尚な仏法の話」を聞けると思っていた同行たちは、肩すかしを食らったのだ。庄松は、どれほど「高尚な話」を聞いていても、自分は「低下の凡夫」だから、「愚劣な思い」しか浮かんでこないのだと告白したのかも知れない。「高尚な話」を期待した自分たちと、庄松のこころが同じように「愚劣」であったかと思い直し、「これはお恥ずかしいことである」と受け止めたのかも知れない。
 しかし、違った受け止めもできる。それは庄松の口から出てきた「正直な告白」は、「愚劣な思い」の告白ではなく、それこそが生きた、生々しい仏法だと受け止めたと考えることもできる。同行たちは、最初、庄松の告白を聞いたとき、なんだ自分たちと同じように「愚劣な思い」をいだいていただけなのかと思ったに違いない。自分たちのこころの中を見抜かれて、庄松が敢えて、「愚劣な思い」を告白してくれたのか、と思って安堵したかも知れない。
 ただ、それだけであれば、やはり、「愚劣な思い」と「高尚な話」との間に断絶が残ってしまう。私は、当初、同行が、自分たちと同じような「愚劣な思い」を庄松に指摘されて「恥じた」のだろうと思った。しかし、その「恥じた」には奥があったのである。
「愚劣な思い」と見ていた、その見方は、なんと傲慢な見方であったか、という懺悔である。「愚劣な思い」と見る見方こそが、「生きた、生まましい仏法」を冒涜していたことではないのか。庄松の告白こそが、「いま・ここ・私」の上で展開している。「生きた、生々しい仏法」だったのだと気づき直し、そこに「大いに恥じいりたり」という懺悔の言葉が生れたのではなかろうか。
 なぜならば、私たち人間から見れば、それがどれほど「愚劣」で、「取るに足らない下らない思い」と見えても、それは仏法の道理によって、私の身の上に起こった仏法自身の生々しい展開なのだ。つまり、どれほど些細な思いの断片であろうとも、それは「自分の思い」を超えて引き起こされる、仏法自身による仏法の表現なのである。
 自分は、何でも、自分が「思い」を引き起こしていると思っているが、〈真実〉はそうではない。何を「思い」、何を「感じ」、何を「行為する」か。それらのすべては、「自分」から始発してはいないのだ。それこそ、「十劫の昔」から何十億年という管を通して、私にまで伝えられた「思い」だった。
 まさに宇宙論的なことを背景にして、私の「思い」は、いま目の前の一瞬に展開しているのだ。だから、「自分」から見れば、それは、「思わされて思っている」という表現にもなる。私は仏法が自由に展開する「器」となる。私は「客体」になり、仏法そのものが「主体」になる。「垂直のベクトル」とは、これだ。仏法が「主体」になり、自分が「客体」となり、「器」となって、その中を仏法がおのずからの展開として、仏法自身を表現していく。これを〈永遠〉との対話と表現してもよいだろう。
 庄松の中を貫き通していた「思い」とは、「十劫の昔」から流れてきた、ほんの些細な「思い」なのである。いくら、それが人間から見て「愚劣」と差別されようとも、それは尊い仏法自身の表現なのだ。庄松自身も、それに驚き、戦き、頷かされていたのだろう。
「易行」とは、まさに仏法自身の展開のことだった。自分は「器」となっていればよい。決して、仏法自身の展開を邪魔してはならない。こうなれば、「されて、ある」となり、「されて、する」という世界が回復する。「回復」とは、以前はあったものが、再び復活することを意味する。だから、やはり、以前はあったのだ。ただそれを忘れて生きてきただけなのだ。つまり、それは「本来性」だ。「本来」を忘れて生きてきた人間に、「本来」を思い出させる。決して、何かを付け足すものではない。あったものを忘れていた人間に、「もともとあったのか」と目覚ますだけのことだ。まあ、ずいぶん念の入ったお手回しというほかないであろう。