親鸞の発想法は、「3」である。「経典」も「願」も「往生」も「信心」も、すべてを「3」というベクトルで発想する。師の法然が「2」という「相対性」で発想していたものを、「3」という「立体性」で受け取った。と言うか、「3」でなければ、落ち着かないものを感じていたというべきだろう。
それは、ハイデガーが「すべての〈反anti〉は、それが立ち向かう相手の本質の中に必然的にとらわれている」(『森の道』)と直観したこと同質の感性だろう。
たとえば、私が、「これが真実だ」と主張したとき、相手は、「それはお前が受け取った限りの真実であって、本当の真実はそんなもんじゃない」と反応したとしたらどうだろうか。それに対して、私が、「それこそ、それはお前の受け取った限りの真実であって、真実とは、そんなものじゃない」と主張し得る。この「私」と「お前」とはどこまで応答し合っても、なかなかお互いが納得する「真実」は到り着けない。
そこで「第三の視線」が要求されてくる。それを人類は、「超越項」に求めてきた。「第三の視線」があれば、お互いの虚偽が明らかになり、お互いがお互いの立場を理解し、受け入れることができるからだ。「第三の視線」しか解決の方法はないのだが、この「第三の視線」というのが、なかなか厄介を孕んでいる。
相対する立場の人間たちは、自己正当化の論理として、これを使おうとするからだ。太平洋戦時下で、軍国主義教育を子どもたちに教えてきた先生が、敗戦を契機に、「自分たちは間違っていた」と反省したとき、何を以て「間違っていた」と考えたのか。相対性で考えれば、強国が弱国を負かしたというだけで、弱国は「戦い方を間違っていた」と考えたのだろうか。おそらく、そういうことではないだろう。それでは何を「間違っていた」と考えたのだろうか。問題があっても、「戦争」という手段を使ったことを「間違えていた」と考えたのだろうか。そういうことかも知れない。
それでも、「戦争」という手段をとった背景は、どうだろうか。そこには絶対なる権威としての「天皇」を立て、その権威を頂点にして、民衆を従属させようとした「軍国主義教育」があったはずだ。それは、軍部や政府が作ったということ以上に、民衆の「同調圧力」が作用していたのではないか。「同調圧力」を加圧するためには、「外敵」が必要だ。それをねつ造することによって、ますます「同調圧力」を加圧したのだ。
「外敵」をねつ造することによって、自国民が政府に対する不満を「外敵」に向かわせるという手法は、往々にして政治が採る詐術である。
もっと核心をえぐれば、「第三の視線」を西洋一神教の「絶対項」に置くか、それとも日本古来の神を「絶対項」に置くかというところまで、問題の根は繋がっている。どちらが、人間にとって、「普遍妥当性」を保持しているかというところまで繋がってくるだろう。
戦後日本は、は「民主主義」というものが、「真実」であり、「軍国主義」が間違いだったということで結論が着いたようだが、果たしてどうだろうか。「民主主義大国」であるアメリカの現大統領・トランプが、絶対君主のように振る舞っている姿を見れば、あれが果たして民主主義なのだろうかと疑うのは当然だ。ほとんど、「権威主義的資本主義大国」の頂点にある習近平と同質ではないか。
ヒートアップした頭を冷やして、本論に戻ろう。親鸞が直観した「第三の視線」とは、いわば「自己否定」の視線である。「相対性」に立つとき、必ず両者はヒートアップする。それは自分の立場を「自己正当化」しようとするからだ。「自己正当化」の論理に「絶対項」を持ち出し、自分の立場を権威化するだけだ。そのヒートアップした熱を冷ますはたらきが、「第三の視線」なのだ。
大岡越前守相の、いわゆる「大岡裁き」の「子争い」は有名だ。「子供の親権を争う二人の女性の裁判で、どちらが本当の母親かを見分けるために、子供の両腕を引っ張らせ、見事に子供を獲得した方を真の親とする」と告げた。お白州の前で実際に子供を引っ張らせると、子供は痛みに耐えかねて悲鳴を上げた。そのとき片方の親は、子供を苦しめるくらいならば、「親権」を諦めようと、腕を放した。その結果、子供はもう一方の女性のものになり、その女性は子供の「親権」を勝ち取った。その一部始終を見ていた大岡越前は、それをよしとしなかった。むしろ、先に子供の手を放した女性に「親権」を与えた。つまり、大岡は、自分が決めた方法と違う方法で、この一件を裁いたのだ。自分の利益を追求するのが真の親ではない、子供の悲鳴で、その手を放してしまうのが「真の親の愛情」というものだと裁定した。だから、最初に手を放した親が「真の親」という判決だ。
母親同士は、「親権」という「損得の相対性」の場にあった。それを大岡は、「真の親の愛情」という「第三の視線」によって見極めようとした。「偽の親」は、大岡越前という「権力」を利用することで、自己正当化と自己保身を得ようとした。ところが、「真の親」は、いわば、「損得の相対性」から身を引き、「損得」を諦めることで子供を救った。ここで「真の親」に身を引かせたもの、それこそが「愛情」というものだ。この「身を引く」ということと、「自己否定」とが共鳴したような気がして、「大岡裁き」の話をしてしまった。
それはともかく、人間というものは、「自己正当化」の論理に「絶対項」を持ち出し、自分の立場を権威化しようとする。そのヒートアップした熱を冷ますはたらきが、「第三の視線」なのだ。
その意味で、親鸞は、いくら「阿弥陀如来」が〈真実〉だと主張しようとも、必ず、それは「自己否定」の文脈で使われている。それが「方便」という言葉で示される。「方便」とは、相対性の次元という意味だ。どれほど、人間が「阿弥陀如来は〈真実〉なのだ」と熱く力説しようとも、それはあくまで「方便」だと知っている。つまり、本質的に、私は「阿弥陀如来」など知らないのだけれども、仮に「阿弥陀如来」という言葉を使って、何事かを表現しているだけだと知っている。どこまで、「〈真実〉」という言葉を使おうとも、それは「真実なる〈真実〉」ではない。「方便の〈真実〉」であると。たかが人間の知っている程度のことであって、それを超えるものではないと、うそぶけるのだ。
トランプが大統領に就任するとき、『聖書』の上に手を置いた。あの手は、自分の立場を正当化するために『聖書』を利用するための手であってはならない。どこまでも、「自己否定」を誓う手でなければならない。
これが本当に神の義に沿うものであるのかどうかと、疑う手でなければならない。
親鸞が、「仏意惻り難し」と言った手でなければならない。散々、仏さんのことについて表現してきた親鸞が、突如、「仏意惻り難し(仏意難惻)」と言う。本当は、阿弥陀さんのことなど、自分には分からないのだと。しかし、それを結論とはしていない。それに続いて、「しかりといえども、窃かにこの心を推するに(雖然竊推斯心)」と言う。
ここで世界がポジからネガに反転している。親鸞の表現は、すべてネガなのだ。ポジではない。ネガとは、親鸞の表現した言葉のすべての裏側に「自己否定」が張り付いているということだ。
まあ「自己否定」という言葉も、私の本心を言い当ててはいない。本心に近い言葉でいえば、やはり、「反問性」だ。「それは〈真実〉に適っていることなのか」と、常に、永遠に問い返される作用のことだ。この「反問性」に曝され続けることだけが、辛うじて、普遍的な〈真実〉をレリーフデッサンするための一彫りになるのだ。〈真実〉とは、誰かが自信を持って主張するところにあるものではなく、娑婆で傷つき、精も根も尽きた人間が、そのひとの内面の奥深くで、「そうかも知れないなあ」と、静かに頷くところに起こる何事かなのだ。