「法話」とは何だ。「仏法についての話」である。さて「仏法についての話」とは何だ。
そもそも、「仏法」とは、「仏に成る方法」なのか、「仏さまの説かれた真理」なのか、よく分からない。辞書的な意味はともかく、私は、「仏法」とは、「真理に目覚めるための法則性」と言ってみたい。しかし、そのように定義してしまうと、「それだけではいだろう」という思いも湧いてくる。そしてあれこれと、定義を試みようとすると、その定義をさらに詳細に定義しなければならなくなる。いま言った「真理に目覚める」の「真理」とはどういうことか、という問いが湧き、さらに「目覚める」とはどういう意味なのかと定義しなければならなくなる。そしてしっかりした定義が出来上がったとして、「それが果たして仏法という意味なのか」という問いが改めて沸き起こってくるに違いない。
つまり、それは、そもそも「仏法」が、人間の理性を拒むものなのだろう。だから人間の理性によって定義することは出来ないのかも知れない。それで、人間の定義しようとする指の間から、「仏法」は、常に漏れていくのだろう。
「仏法」とは、人間の定義よりも大きなものだから、人間には定義できなものなのだ。
だから、「仏法」という言葉があっても、本質的に表現者が、それを十分に理性的に理解しているかと問われれば、それは否と言わなければならない。
「仏法」という言葉は、メタファー(metaphor)であり、人間界に「言葉」として存在はするが、その「意味」は決して人間界に還元できない何かなのである。人間が「意識」と「無意識」で出来上がっているものならば、その「無意識」という領域にはたらきかけるものが「仏法」である。
高光大船さんは、「鉄砲は生きた人間を殺すもの。仏法は死んだ人間を生かすもの」と定義した。「鉄砲(テッポウ)」と「仏法(ブッポウ)」と、韻を踏んだ表現でコピー化したものだが、これもキャッチフレーズであり、面白い表現だ。一言で、ひとをこちらに振り向かせるはたらきをもっている。「仏法」を暗示する、もっとも短いキャッチフレーズの極致は、なんと言っても「南無阿弥陀仏」という六文字だろう。
「世間」では、真宗の「法話」は難しいと言われる。それは話し手が「仏法」を分かっていて、それをまだ分からないひとに教えるという形式のものではないからだ。表現者にも、意味が分からないことなのだ。それは表現者の「無意識」の領域にあるものだから、「意識的」には曖昧なものだからだ。そういうものをメタファー(metaphor)という。
「仏法」と「人間の発想」とが一致していれば、「易しい」と感じるのが人間だ。「易しい」とは、「ハウツー(How to)」の知恵の満足が吐かせる言葉だ。ああすればこうなる、こうすればああなるという発想でしか考えたことのない人間にとって、「仏法」は「難しい」と感じられる。真宗は、ああしてもダメ、こうしてもダメ。また、ああしてもよし、こうしてもよし、だ。この「ハウツー(How to)」の知恵と位相を異にしているから、「難しい」という反応が起こる。
安田理深先生も、「仏法など好きで聴けるものではない。好きで聞くなら変態だ」とおっしゃっている。だから、やはり、人間は「仏法」などを、本質的に欲してはいないのだ。
欲していない人間に声を掛け、「法話」を聞かせようとするのだから、これは何のためにやっているのか、まったく訳が分からない。突き詰めてみれば、寺の存在意義は、「仏法」を聞くための空間だが、ほとんど無意味なことのために存在しているのだ。
ただし、「無意味」という言葉を使ってしまうと、使ってしまった途端に、「無意味」の深淵へと引きずり込まれていく。つまり、一気に、この世に「無意味」以外のことがあるのだろうかという思いへ誘われる。そもそも、「阿弥陀」とは、〈無・意味〉という意味であって、一気に、そこへ引きずり込まれていく。
なぜ、〈無・意味〉が展開する「法話」を、わざわざ人々に公開しようとするのか。それは、人間が「意味」にこだわり、「意味」で苦しんでいるからだろう。この「意味の病」に罹った人間が、〈無・意味〉と出遇うことで、人間に癒やしが訪れる。そんな利益も、「おまけ」でついてくるのだ。しかし、癒やしが最終の目的でもないだろう、と思う。「仏教」は、ひとを救うものだという理解があるが、それは「おまけ」で付いてくる「救い」であって、本質は、そこにはない。たとえ「真理に触れるためだ」と言ったとしても、その最終目的は、おそらく人間には知らされていないのだ。
だから、「行者のよからんともあしからんともおもわぬを、自然とはもうすぞときききてそうろう。」(自然法爾)と、親鸞は述べたのだろう。「真宗」が、存在する理由は、「もとより行者のはからいにあらず」である。つまり、人間には本質的に知らされていないなにかなのだ。
言えば、「有意味」と「無意味」を超えたところにある〈無・意味〉である。「絶望道」の意味空間では、「無意味」は「絶望」を意味する。この「無」は自分が自分に突きつける「無」だから、これは「絶望」へと導かれる。しかし、「往生道」の〈無・意味〉は、「希望と絶望」を超えさせる「無」である。この「無」は、自分が自分に突きつけるものではない。いわば「超越項」、つまり「阿弥陀さん」から私に向かって促される「無」だ。
「有意味」と「無意味」が共に成り立っている「絶望道」という意味空間そのものを、「無」として否定してくださる作用である。
ここまで書いてきて、何か自分はいいことを書いているような気がしてきた。「○○のために法話がある」とか、「○○のために寺がある」とか、目的論的に結論を出そうとしている。しかし、その書き方そのものの成り立たないのが、〈真・宗〉なのだろう。つまり、「○○のため」という言い方を許さないものだ。この目的論的発想が届かないもの、目的論的発想に違和感を称えるもの、それが〈真・宗〉ということになるのだろう。
そもそも、〈真・宗〉は人間よりも大きいものだから、小さい人間には所詮、意味不明のことなのだ。