この「住職のつぶやき」を、長い間、中断していた。
それは「〈真実〉のデッサン9」をまとめる作業を優先させてきたからだ。一応、この本の形が整ったので、ようやく、ブログを更新するという「こと」に当たる余裕が生れた。
まあ、その言い訳以外にも、もう一つの理由があった。それは連れ合いである坊守が、六月九日に入院することとなり、急激に生活が変化したことである。いままで私は、いわば「首の上」の事ばかりの「こと」に当たってきたと言ってよい。それに比べて、坊守は「首の下」のこと、全般に当たってきた。家事全般、寺院運営全般である。
まあ、世間でよく聞く話は、こんなふうだ。「いままで亭主関白で、箸の上げ下ろししかしてこなかったご主人が、奥さんがご病気で入院されたら、何一つできないのよ」と。旦那は、外で仕事をし、給料を家に入れるひと、奥さんは、家に居て家庭をまもるひと。これは、こういう「分業」が成り立っていた時代の物言いかも知れない。だから、女性陣から言わせれば、「家のことをすべて、奥さんに押しつけて、それでいいことにして、家庭を顧みなかったツケがようやく回ってきたのよ。いい気味よ。自業自得ということね。それを反省するためのいいチャンスじゃないの」となる。
まあそう批判されても、何一つ言い返すことのできない男性陣の代表じゃないかと思えてくる。墓穴をもう一つ掘れば、連れ合いは、因速寺の坊守であり、寺院経営の手足、つまり経理全般を請け負ってきた。数字のことにはからっきし弱い小生は、経理全般もすべて坊守に請け負ってもらってきた。家事全般、から寺の経理まで、いわば「具体的生活」の基礎を支えてもらってきた。
それに比べれば、小生の当たってきた「こと」は、「抽象的生活」だったのだろう。しかし、包丁の使い方から、洗濯のやり方、食材の賞味期限の認識、ゴミ出し日の認識など、一つ一つの「こと」に当たってみると、生活がより「具体的」になってきたような気がする。
これは生物学的見解だが、男性は女性に比べて「生存年数」が短い。その理由は、男女が分裂する前の身体の状態は、「女性形」が人類の基本形だと言われている。だから人類は女性しかいなかった。しかし、生命として地球上に存在するためには、どうしても男性と女性を分割したほうが、より耐用年数を長くすることができると、生命自身が考えたようだ。それで、いままで女性自身で子どもを産めたものが、生殖器をもった男性という人体を外部に分割したそうだ。だから、男性には、大昔、女性であった名残である乳首が残っている。
それで、生殖器を取り付けただけの、女性形の一部分のパーツとして、つまり亜種として作られた男性そのものは、地球上での生存期間は比較的短いのだそうだ。
つまり、地球上で生存に適している身体は、「女性」ということになる。そして、小生が今回、発見したのは、やはり、女性が生存に強いということは、衣食住の一番先端にある「具体性」を生きているからではないかと思ったのだ。炊事洗濯は、もっとも生活の先端にある「具体性」だ。炊事とは、「食べる」ということに関してだが、「食べる」が成り立つためには、それを支える段取りがある。まず何を食べるかという構想が必要だ。その構想が決まれば、食材を手に入れなければならない。そのためには都会では、スーパーマーケットで食材を購入しなければならない。それもどの食材をどの程度購入するかも考えなければならない。ここのところ、マーケットでは、人手不足なのか、「セルフレジ」なるものが、圧倒的に増えた。それまでは、人間がレジ打ちをしていたが、そんな姿も、やがて「昔の情景」になっていくのだろう。駅の改札に駅員がいて、乗客の切符を切るという姿も、はるか「昔の情景」になったように。小生は、あの「セルフレジ」が怖くて近寄れなかった。そもそも、どうやって「会計」までこぎ着けるのか、その手順も分からない。
以前は、商品を店員に渡せば、ピッピッと品物をスキャンし、カゴに詰めてくれるまで、そこで待っていればよかった。しかし、「人前レジ」がなくなった以上、「セルフレジ」なるものに適応していかなければならなくなった。セルフだから、自分で商品のバーコードをスキャンするのだが、これがなかなか上手く読み込めない。さらに、そもそもバーコードの付いていない商品がある、特にそれは野菜類である。その場合、機械の画面で「野菜」をタッチし、さらに「数量」をタッチし、最後に「会計」という部分をタッチして、ようやく「支払い」にこぎ着ける。
ところがである。この「セルフレジ」に調教されてきた小生は、これが上手く使いこなせるようになったのだ。使いこなせるようになると、いままでの不安はなくなるから不思議だ。横を見れば、小生よりもかなり年配の方々も、上手に使いこなしているではないか。これも、小生と同じように、機械に調教された哀れな老人かと、世をはかなんでみたりしている。さらに面白いことに、自分を観察してみると、「セルフレジ」で、ピッピッと商品をスキャンすることに快感を感じている自分がいた。「セルフレジ」が上手く使いこなせるようになった自信の表れかも知れない。何だか、これで一人前じゃないかとうぬぼれている自分も発見した。「具体性」とは、単純な行為から、様々なことが学べるチャンスのことなのだろう。
これは食事作りを軽蔑していた道元禅師が気づかれたことと、似ているかも知れない。禅では、炊事当番を「典座(てんぞ)」と呼ぶが、入宋した道元は坐禅が第一であって、食事作りは二の次だと思っていた。ところがある老僧に出会い、それの間違いに気づき、食事作りこそ「禅」の真髄だとして、『典座教訓』を書かれたと聞く。まさに生活の「具体性」こそが、問いとなって修行者を教育していくことの大切さを教えている。
さて、首尾よく食材を購入することができたとして、それをどの程度の具材としてカットするか。ジャガイモならば、まず洗ってから皮を剥かなければならない。さらにひとが食べやすい大きさを考えて、それを切り分ける。さらにジャガイモを煮るための鍋を用意し、そこに水を張り、レンジに火を付ける。現代では水も蛇口から出るし、火もレンジのスイッチを回せばすぐに手に入る。これが古代や中世であれば、大変な労力を必要としただろう。人間の「具体性」を考えれば、いま水と火が簡単に手に入るということは、まさに目の前で「奇跡」が起こっているということだ。機械がなければ、火を手に入れることすらできない。これは厳密な意味で、「具体性」を欠いた人間の有り様だ。
次に進もう。さて鍋にジャガイモを入れて何分煮たらよいのか。こんなことは連れ合いであれば、長年「身についた習慣」で会得済みのことである。現代は、スマホのGoogleで調べれば、大体のことを学ぶことができる。しかし、ジャガイモは、それほど難しくはないが、「ゆで卵」をどのように作るかは、なかなか興味深かった。やわやわ半熟か、とろとろ半熟か、固茹でかで、茹でる時間をコントロールするのだ。それも冷蔵庫から取り出してすぐの卵か、それとも常温卵かでも煮る時間は異なる。さらに新しい卵か古い卵かでも違ってくる。
話はすぐにディテールに行ってしまうので、元に戻ろう。ジャガイモを煮るまではよいのだが、次には味付けだ。ジャガイモの煮転がしであれば、塩、醤油、みりん、出汁などを投入し味を付ける。そのタイミングや、味の濃さ加減も見なければならない。しかし、何度も味を見ているうちに、味の濃さ加減が分からなくなってくるのだ。これは「素人」ばかりでなく、よく連れ合いも家人を台所に呼んでは、味のテイスティングをさせていた。自分の調理した味付けの塩分が分からなくなるということは、人類に共通のことだったのかも知れない。テイスティングにも「閾値」があって、「自分」を見失うことが起こるのだろう。
それはともかく、調理には、その前にしておくことがまだあった。煮られているジャガイモを盛り付けるための皿が用意されていなければならない。それも一人分ならまだよいが、二人分ならどの容器にするか。連れ合いは、ラーメンを作るとき、ラーメンどんぶりを数枚重ね、その間に水かお湯を少量入れ、電子レンジで加熱していた。それはラーメンを入れる容器を予熱すしておき、いざラーメンを入れた段階で、ラーメンの温度が温くならないための工夫である。料理は、やはり近い将来を予想する構想力のたまものだと気づかされた。食材は具体性だが、それが料理となるためには、抽象的な構想力が不可欠なのだ。
構想を練り、それを具体性にまで形作り、いざ食事として提供する。しかし、構想から具体的な料理にするまでに掛かった時間と、それを「食べる」という時間とを比べると、「食べる」時間はあっという間だ。ラーメンなどは、あっという間に食べてなくなる。
こうなると、調理とは、「一瞬の芸術」ではないかとさえ思える。この「一瞬」のために、構想、買い出し、調理という時間が費やされたのだ。それであっても、この「一瞬」のために、相も変わらず、また構想から初めて行くのだ。そもそも、人間は「死ぬ」ために「生きている」のだから、いわば、「死ぬ」ために、一生懸命「食べている」のだ。「死ぬ」までに、人類は、一体、何食の食事を食べるのだろうか。
こう考えると、「食べる」ということは、実に「宗教的」である。磯野真穂さんは、「食べる」とは「意味を食べる」ことだとおっしゃっていた。これは、〈真実〉だと思われる。
いままでに私はたくさんのものを「食べて」きた。しかし、それらは「食べた」という記憶にしか残らない。だから「食べ物」がどのように身体の栄養やエネルギーになるのかは、「意識」とは異次元の話だ。確かに身体は身体のシステムによって、過去に「食べてきたすべてのもの」で出来上がっている。しかし、「意識」にとっては、「食べる」は、記憶に残っているだけだ。だから、〈いま〉には存在しない。残っている記憶とは、「意味」である。「食べる」は「意味」としてあるのだった。
ここまでくると、「食べる」と「生きる」は同義語になる。「生きる」も身体のレベルと、「意識」のレベルがあるようだ。「意識」にとって、「生きる」は、すべてが過去のととして記憶されている。「生きている」と考えることは、もうすでに「生きて」きた過去のことしか考えられない。「生きる」にも、〈いま〉には存在しない。「過去の記憶」としてしか存在しない。つまり「意味」である。
「生きる」とは何と抽象的な言葉なのだろうか。「生きる」とは、「具体的」な「行為」の集積であるが、それら一つ一つの「行為」は「意識」にとってカウントできないくらいに「具体的」だ。身近なことで言えば、「呼吸をする」という「行為」を、「意識」はいちいち「意識」することがない。心臓の鼓動も、そうだ。そんな「具体性」をいちいち「意識」が「意識化」していては、「生きる」ことが始まらない。だから、すべては「生きる」という一語でパッケージ化してしまうのだ。
「意識」にとって、「具体的」な「行為」は、すべてが「不可思議」である。つまり、「食べる」という「行為」自身が、意識を「具体」の世界へと降下させ、調教してくれる。「意識」の思い上がりをたしなめ、より「不可思議」な「具体性」へと解放してくれる。
それは、男性という身体が、大昔に「女性形」だったことを思い出させるための「調教」なのかも知れない。
「別れのない夫婦は存在しない」という表現は〈真実〉である。私は仲人を五組ほどしたが、その時のはなむけの言葉に、「夫婦とは別れを約束する儀式である」というのがある。これを、いま私自身が証明する段階に入った。
それを仏教は「愛別離苦」と表現した。「愛し合うもの同士が別れなければならない苦しみ」である。池田晶子は、「別離」は真理であるけれども、それを「苦しみ」として捉えたところがお釈迦様の弱点だというようなことを言っている。彼女は「阿羅漢」の域に達しているので、「別離」には「苦しみ」がないかのように振る舞っていた。しかし、この「苦しみ」は「貪欲」という煩悩が引き起こすものであって、誰に於いても感じる「苦しみ」である。なぜならば「貪欲」のない人間は、この世に存在しないからだ。つまり、彼女は、「貪欲」を断ち切った「阿羅漢」なので、「悲しみ」や「苦しみ」はないのだ。でも、それは実に疑わしい「阿羅漢」である。
それはともかく、私は、「痛みは身にあり、悲しみはこころにあり」と言っている。友だちの宇佐美友見が、「五行詩」という形式で、こう詠んでいる。
友人を亡くした母は
湯飲みの底を
見つめたまま
死は 残された者に
訪れるのだ (『海、はじまる』)
友人を亡くした母に、「悲しみ」が起こる。「悲しみ」を引き起こした「死」は、どこにあるのだろうか。それは、「残された者」にあるのだ。もっと丁寧に言えば、「先立った者」と「先立たれた者」との間にあると言える。
と言うことは、他者とは、「間にある者」である。他者は単独では成り立たない。他者と自分との間にしか成り立たない。その「間」とは、いわば「貪欲」という意味場が設定した「間」なのだ。
『歎異抄』(第四条)で言えば、「聖道の慈悲」である。「ものをあわれみ、かなしみ、はぐくむ」という心性だ。これは貪欲が支配している世界である。「悲しみ」とは、貪欲が断絶されたことの悲鳴である。貪欲とは、曇鸞の言葉を借用すれば、「自楽を求め」、「自身に貪着」し、「自身を供養し恭敬する心」である。つまり、人間の「愛」とは、自己愛以外にはないという目覚めである。人間は、つねに自分を楽にしてくれるものを求め、自分自身だけを愛着し、自分に尽くしてくれるもののみに「愛」を感ずる。それ以外に、人間には「愛」は存在しない。
イエスは、「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」(マタイ福音書22-39)と言っているが、これは人間には不可能なことである。これは「貪欲」のない存在にしかできないことだからだ。
それで『歎異抄』は「浄土の慈悲」というメタファーを作り、「聖道の慈悲」と「浄土の慈悲」には「かわりめ」があると語ってくる。「聖道の慈悲」は、「おもうがごとくたす」けたいという「貪欲(自我愛執)」から起こす愛だ。しかし、これは「おもうがごとくたすけとぐること、きわめてありがたし。」であると言う。それに相対して、「浄土の慈悲というは、念仏して、いそぎ仏になりて、大慈大悲心をもって、おもうがごとく衆生を利益するをいうべきなり。」と語る。「聖道の慈悲」は、「貪欲」から起こす愛だが、「浄土の慈悲」は人間が起こす愛ではないという。「いそぎ仏になりて」ということは、仏に成らなければ大慈悲心は起こせないと言っているのだ。つまり、「凡夫」である自分には起こせない愛なのだ。ここに「大いなる断念」が潜んでいる。それが「かわりめ」だ。
「貪欲」とは、徹底して、「自楽を求め」、「自身に貪着」し、「自身を供養し恭敬する心」あり、この「貪欲」が断絶され引き裂かれることが「悲しみ」なのである。つまり、「貪欲」が「悲しみ」を演出しているのだ。
そのように「悲しみ」の生産構造が明確になることによって、「貪欲」と「自己」とを切り分けることができる。「悲しみ」は「貪欲」の演出であり、それは「自己自身」とは無関係なことなのだ。池田晶子のように「貪欲」を壊滅するのではなく、「貪欲」は「貪欲」として生かしたまま、「自己」と棲み分けるのだ。この棲み分けを『歎異抄』は「かわりめ」と暗示しているように思う。
しかし、「貪欲」と棲み分けた「自己」とは、いかなるものだろうか。そんな「自己」があるのだろうか。そうて問うてみると、そんなものはつかみ取ることができないように思う。それは「これが自己だ」として取り出すことのできないものなのではないか。それを「自我」が、「自己」だと対象的に認識すれば、それこそ「自己」の影を掴むことになるのではないか。「自我」は、「貪欲」なのだから。やはり、「自我」にとって、この「自己」とは、「不可思議なるもの」でしかないのだろう。
「聖道の慈悲」は、愛のベクトルが、「自己」から「他者」へと向かっている。「自我愛」は、「自己」が「他者」を愛するという形になる。しかし、「浄土の慈悲」は、愛のベクトルが「自己」からは始まらない。それは「浄土から」とか「如来から」という超越項のベクトルから出発する。そして、この愛のベクトルによって、「自己」と「他者」が共に包まれるというイメージだ。
いままで「自己」から「他者」へという愛のベクトルで生きていたものが、「おもうがごとくたすけとぐること、きわめてありがたし。」と、「大いなる断念」を転機として、初めて開かれる方向性を『歎異抄』は暗示している。それが「浄土の慈悲」、つまり「浄土から浴びせられる慈悲」なのだろう。
譬えれば、「自己」が愛という小さなライトで「他者」を照らしている。これが「聖道の慈悲」だ。しかし、「浄土の慈悲」は、その「自己」と「他者」を背後から巨大なライト」で照されることによって、「自己」と「他者」が共に、そのひかりの中に包まれるといったイメージだ。もちろん、小さなライトは、巨大なひかりに飲み込まれてしまうのだ。
この慈悲に包まれた親鸞だから、次のようなファンタジーが語れるのだろう。
「親鸞はさきだちまいらせ候わんずらんと、まちまいらせてこそ候いつるに、さきだたせ給い候う事、申すばかりもなく候う。かくしんぼう、ふるとしごろはかならずかならずさきだちてまたせ給い候うらん。かならずかならずまいりあうべく候えば、申すにおよばず候う。かくねんぼうのおおせられて候うよう、すこしも愚老にかわらずおわしまし候えば、かならずかならず一ところへまいりあうべく候う。(略)さきだちまいらせても、まちまいらせ候うべし。」(『御消息拾遺』)
(私、親鸞が先立つであろうと、その時を待ちこそしていたのに、先立っていかれましたこと、申す言葉もありません。覚信坊も先年亡くなりましたが、間違いなく先立ってお浄土でお待ちになっていることでしょう。必ずお二人は出会われるに違いありませんから、何も申すに及びません。また、覚然坊の言われることは、この愚老に少しも変わるものではありませんから、私どもも必ず一つ浄土へまいることでありましょう。(略)私が貴方に先立ちましても、浄土でお待ちしていましょう。(細川行信他『現代の聖典 親鸞書簡集 全四十三通』)
『教行信証』を書いている親鸞からは、このような表現は生れてこないだろう。だから親鸞も晩年は耄碌したのではないかと揶揄されることもある。しかし、これは、『教行信証』で展開した「原理教学」なくしては生れ得なかった「応用教学(臨床教学)」の世界なのである。『歎異抄』(第四条)で言えば、「おもうがごとくたすけとぐること、きわめてありがたし。」という「大いなる断念」を通して、初めて「浄土の慈悲」というメタファーが語り出されたようなものだ。
いま目の前にしている、「時間・空間」が「幻想」だという「大いなる断念」を契機として、親鸞は「浄土往生」という物語を自由自在に表現していく。親鸞は、この世のいのちが終えたら浄土という他界があり、そこへひとが往くのだなどとは、まったく思ってはいない。そんなものは、「凡夫」の戯言だと重々知っている。
だから、『歎異抄』(後序)では、「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします」と語る。こう語ると、「そらごとたわごと」と、「念仏のみぞまこと」が二つのことのように受け取ってしまうが、そうではない。凡夫が、疑うこともなく「まこと」だと思い込んでいる世界を、それこそ「まことあることなき」と徹底して批判する作用が「ただ念仏」なのである。これこそが、「まこと」なのだ。
このように、この世が完全に対象化されてしまった上で、初めてファンタジーを「遊ぶ」余裕が生れるのだ。
どちらが先だか、ほんとうのところは分からないが、もし連れ合いが先に浄土へ往くとなったなら、やはり、それは私より少し早く、浄土へ往くだけの話だと思われる。私もいずれは往くのだから、早いか遅いかの違いはあるが、必ず往くのだ。また、誰しも往かないひとはないのだから、皆が往くところなのだ。
連れ合いが10時の電車で行くとなれば、私は10時5分発の電車で行くだけだ。また向こうで会えるのだから、少し待っていてもらえばよいのだ。
このように受け止めてくると、この世は実に短い期間のことなのだと、改めて実感されてきた。どうせ往くのであれば、この世で、阿弥陀さんに頼まれた仕事をしてから往ってもよいではないか。この世にあるということは、阿弥陀さんが、「お前には、まだ仕事が残っているぞ」と言っているようなものだ。
私の感じること、考えること、すること、あらゆることが、「阿弥陀さんの用事」だったのだ。それを一つ一つ、丁寧にしていくことだけなのだ。そもそも、物事の〈真実〉をご存じなのは、「阿弥陀さん」だけなのだから。安心して「そらごとたわごと」を「そらごとたわごと」として、ことに当たっていきたいと思う。