2025年6月4日に第19回・静岡親鸞講座が開催された。この講座は、岡崎教区第34組の主催で、2019年1月23日から開催されている。三ヶ月おきの開催で、年に4回開催されている。2021年はコロナウイルス騒動で無開催だったが、その後再開され、今回が第19回だった。ここに転載した「『質問&感想』に応えて」は、第18回(2025年3月26日)に出された「質問&感想」である。
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1、「人間は来るべき「未来」に向かって、何かを目指そうとする生き物である」(レジメP9~10)というとらえは、何か未来志向のよい考えのように思えるのですが、それではだめ?なのですか。
●武田→ このご質問には、いろいろな角度からの答え方があると思います。①、人間は「未来に向かって、何かを目指そうとする生き物」ですが、その「未来」とは何でしょうか。どのくらいの範囲を「未来」と考えますか。②、また、それは「人類は」ということなら何となく理解できますが、「私は」と主語を変えたらどうなるでしょう。「私は『未来』に向かって、何を目指すのか」と問うたらどうなるでしょうか。③、仏教が発見した「生老病死(しょうろうびょうし)」という課題を前にしたとき、究極的に「目指すべき未来」とは、何なのでしょうか。
別の角度から言えば、人間にとって「未来志向」が有効な場面と、有効ではない場面があるということでしょう。「未来志向」が有効な場面とは、あえてそれを一語にまとめれば、「How to(ハウツー)の位相」でしょう。たとえば、どのような勉強の仕方をして受験に合格するかとか、人類にとってエネルギー問題を解決するための研究をするとか、未来の人間にとって有効と思われる目的に向かって努力することは素晴らしいことでしょう。
しかし、「未来志向」が無効な場面もあります。それを一語にすれば、「Why(ワイ)の位相」です。それこそ、自己一人(いちにん)の「生老病死」をどう受け止めるか、なぜ必ず死ぬのに生きなければならないのか、何のために生きるのか。この位相の問題は、「How to」が無効です。
そして、この位相の問題に答えるために〈真・宗〉があるのです。まあ、人類にとっての「永遠の課題」ですね。
2、復習の会で、死にたいと思っても生きねばならない。生きたいと思っても死んでいかなければならない。ということについて少し話し合われました。
「自力」はつねに「~これから」と発想し続けるが、「他力」は「すでにして」と、つねに応じ続ける。
そこには先の2つに応答し、今、救われていくということが成り立つのでしょうか?
そしてそのはたらきが他力なのでしょうか?
●武田→ まず、こちらでは本講が済んだ後に「復習の会」を持たれていることに敬服致します。蓮如上人が「寄り合い談合(だんごう)せよ」とおっしゃられたことを、現代まで実践されていることは、本当に素晴らしいことだと思います。蓮如上人も、こう言われます。「寄り合い談合せよ。必ず、五人は五人ながら、意巧(いぎょう)にきく物なり。能く能く談合すべき」の由、仰せられ候う。」(『蓮如上人御一代記聞書』聖典p877)「意巧」とは、「各人各人の了解の仕方で」という意味です。「各人の受け止め」以外には受け止められませんので、それはそれで大切なのですが、でも、それは各人の受け止めであって、お話の「正しい意味」と違っている可能性があります。ですから、各人の受け止めを再度、各人が言語化(外化)することで、「正しい意味」と合っているのかどうかを、皆さんとともに吟味することが大切なのです。また言語化(外化)することで、他のひとたちが自分の理解や関心とは違った見方を持っていたことも発見できます。そこで再度、「聴聞」できるのですから、何度でも、仏法を味わい直すことができます。
最後に、もう一つ付け加えるならば、「聴聞」は、「聞薫習(もんくんじゅう)」と言われ、耳で聞いた仏法の薫(かおり)が、自己の深層にまで染みてきて、自己自身をも改変していきます。つまり、「以前の自分」と「現在の自分」とが、教えの言葉に対して異なった理解を得ることができるのです。「以前はこうとしか読めなかったが、現在はこういただける」と言った印象を持つことになります。教えの言葉に対して、違った理解を得るとは、「理解が深まった」と言うこともできましょう。この無限増幅が「聴聞」の醍醐味であります。「いつでも、どこでも、何度でも、」味わっていけるものが、〈真・宗〉です。
それでは、本題に戻ります。
ここには、「死にたいと思っても生きねばならない。生きたいと思っても死んでいかなければならない。」とありますが、あなたがどう思おうとも大丈夫です。それは所詮、人間の「思い」でしかありませんから。「死にたい」も「生きたい」も、共に「思い(煩悩)」です。
「自力」とは、その自分の「思い」が「思い(煩悩)」だと気づけない状態のことです。「他力」とは、自分の「思い」が、「自分の思い(煩悩)」だったのだと目覚めた状態のことです。ですから、単純なことです。
「自力」は、必ず「これから、これから」としか発想できません。「救い」を「これから」獲得したいと思います。ただ、その「思い」に対して、「すでにして」と答えるのが阿弥陀さんです。阿弥陀さんは、もうお前は悲愛の中にあるのだぞと、訴えてくるのです。その訴えが「他力」です。つまり、他力とは、「これから」という思いに対して、もう「すでにして」救いの中にあるのだと訴えてくる阿弥陀さんの悲愛のことです。
安田理深先生の言葉が、ヒントになるかも知れないので記します。「たのむも助けるも世間の言葉であるが、信仰には助けるも、たのむもないのが本当である。事実また、そんなことに用のないのが南無阿弥陀仏の安心(あんじん)である。南無阿弥陀仏ということに、すべては尽くされている。」(『安田理深選集』第9巻 文栄堂書店 p227)
「たのむ」や「助ける」という言葉を「世間の言葉」と安田先生はおっしゃいますが、私は、これは、「物語の次元」にある言葉だと理解します。「たのむ」を教学用語で言えば「南無(なむ)」とか「帰命(きみょう)」でしょうし、「助ける」は「摂取不捨(せっしゅふしゃ)」とか「救済(くさい)」という言葉になります。これらの教学用語を、我々が「実感しやすいレベル」の用語にしたのが、「たのむ」とか「助ける」という言葉だと思います。ただ「実感できる」ということは、そこに人間の煩悩が入り込みます。つまり、「たのむ」と言えば、「自分がたのむ」と受け取りますし、また「助ける」は、「阿弥陀さんが助ける」と、二項対立的に考えてしまいます。「たのむ」自分と、「助ける」阿弥陀さんとを分裂したものとして受け取り、「自分は阿弥陀さんに助けられるものだ」と考えてしまいます。それがたとえ間違った受け止めであっても、そのように受け止めます。またそのように受け止めるように書かれているのが、「救済の物語」です。まあ「誤解なしに正解なし」です。
「二河白道」の譬喩は、まさにビジュアル化できるほどに「物語性」が突出しています。これは〈真・宗〉が「物語」で表現される「救済原理」だということを表しています。まあ、あえて「思い(煩悩)」で生きている者の次元に、つまり「臨床の現場」に理解しやすいように「救済原理」が説かれます。教学用語で言えば、「方便(ほうべん)(ウパーヤ)」です。別の言葉で言えば、「欣慕(ごんぼ)」です。これは善導大師の言葉ですが、それを親鸞聖人は、『三経往生文類(さんぎょうおうじょうもんるい)』で「浄土を欣慕(ごんぼ)せしむるなり」(聖典p471)」と記します。「欣慕」の「欣」は「ねがう」ですし、「慕」は「したう」で、「凡夫に浄土を願い慕わせる」という意味です。俗語で言えば、「勧誘」ですね。
原理教学の用語で表現すれば理解しがたいことが、凡夫の「住んでいる」臨床の次元に「物語」として表わされることで、〈真・宗〉を求めようという動機が生まれます。たとえば、「極楽」とか「浄土」という用語は、「煩悩海」(聖典p232)に生きる人間には、「よいこと、好ましい場所」と受け取れますし、「地獄」は「不都合な場所、好ましくない場所」として直感的に感じます。ですから、「浄土往生を願う」とか「信心を得たい」という願いは、煩悩を刺激して、〈真・宗〉に導こうと「欣慕」させるはたらきから起こってくるのです。親鸞は「誘引(ゆういん)」とも使っています。(『教行信証』化身土巻・聖典p326)
しかし、安田先生は、これを即座に否定されます。「信仰には助けるも、たのむもないのが本当である。」と。ここでいう「信仰には」というのは、「原理教学に於いては」という意味です。安田先生が他の場所で言われているのですが、どこで言われていたのか、その原文が見当たらないので記憶に頼って語ります。先生は、もし凡夫が弱々しいものであって、その凡夫が強力な阿弥陀さんをたのんで、阿弥陀さんの力によって助けられるものなら、凡夫は、一生、阿弥陀さんに頭が上がらなくなるだろうと言うのです。つまり、阿弥陀さんの奴隷になるような信仰に堕すと言われます。
これは「劣等感教学」ですね。凡夫は、聖道門のかたがたのような修行をする能力もなく、煩悩でしか生きられない劣等な存在で、その劣等な存在をこそ阿弥陀さんがお救い下さるのだから、阿弥陀さんに報恩感謝するのだという発想です。これは安田先生から言わせれば、まさに「阿弥陀さんの奴隷」になるということでしょう。一応、「たのむ」とか「助ける」という臨床用語を使うけれども、それは、「たのむ必要もなく」また「助ける必要もない」ことを表すためなのです。いわば「信仰的自律」こそが〈真・宗〉です。私は、それを「相互救済」という言葉で語っています。衆生は阿弥陀さんによって救われるけれども、阿弥陀さんは衆生を助けなければ仏に成れません。つまり、救われません。だから、衆生は阿弥陀さんに救われることを通して阿弥陀さんを救って、真の仏にさせてあげるわけです。衆生と阿弥陀さんとが相互に救済関係を結ぶことが〈真・宗〉です。これが「信仰的自律」でしょう。安田先生は、「信仰的自律」というよりも、信仰的独立という用語で語られます。
3、「現状を改変せよ」「現状に満足せよ」どちらかの文脈で仏法を受け止めていた気がします。またその中でやせ我慢している気もします。それを超えて「されている」と気づかされることが大切なのですね。
●武田→ 人間が考えることは、この「現状を改変せよ」か「現状に満足せよ」のどちらかしかありません。現状否定か現状肯定のどちらかです。それを決めている「思い」があるのです。その「思い」を『歎異抄』は、こう批判しています。「われらが、こころのよきをばよしとおもい、あしきことをばあしとおもいて、願の不思議にてたすけたまうということをしらざる」(第十三条・聖典p633)と。ここに「おもい」が二度出てきます。この「おもい」だけをたよりにしているのですから、阿弥陀さんなどたよりにしていないのだと指摘します。こう指摘されると、言い返す言葉もありません。私は、「自分の思い描いた世界」だけを「世界」だと思って生きていますから。つまり、それは「思い込み」と「固定観念」以外を生きていないということです。それがそっくり「思い込み」だったと知らされること、それが煩悩を超えて「煩悩海」を生きることでしょう。
最後に、「それを超えて「されている」と気づかされること」と記されていますが、これが大事だと思います。これは倫理的な意味場で言っていることではありません。つまり、空気は木が出した酸素であり、それによって生かされているとか、人間は一人では生きられない、必ず他人の世話になっているとか、そういう意味の「されている」ではありません。まあ、それも含みますが、もっと根源的なことを言いたいのです。あらゆることの始まりは、すべてが「受動的」であるという意味です。それは果は、果としてポツンと単独にあるわけではなく、その果が果として成るまでの縁があるという意味です。縁があって、いま現在の世界が成り立っているのです。私たちは、出来上がっている果(現実)しか知らされていないのですが、その果から、それが出来上がってきた因に思いを馳せるのです。その一番原初のところを「されている」と言いたいのです。原初の「されている」は、「弥陀成仏のこのかたは、」(浄土和讃)にまで遡ることのできる、「されている」です。
しかし、それを「受動的」という言葉で表すことも、間違っているように思います。「受動」という用語を使うと、必ず「受動として受け取る自己」というものが想定されてしまうからです。「受動」の反対語が、「能動」であって、自己が「受動」であれば、阿弥陀さんが「能動」であるかのように考えてしまいます。そういう意味ではありません。〈真実〉は、「受動」でも「能動」でもないのです。ただ「されてある」と受け取るのみです。物語的に言えば、「しているのは阿弥陀さん」と擬人化してもよいのでしょうけれどね。
ここには「原理教学」の表現と「臨床教学」の表現の差異を見極めなければなりません。
4、「従因向果(じゅういんこうか)」(常識)、「従果向因(じゅうかこういん)」(非常識)、なぜ従果向因が非常識なのでしょうか?結果から因に向かうこともあると思いますが…?
●武田→ 「従因向果(じゅういんこうか)」(常識)、「従果向因(じゅうかこういん)」(非常識)」と書いたのは、あくまでも「救い」の論理を明確にするためです。「従因向果」は「因より果へ向かう」ことで、いわゆる「ハウツーHow to」理論です。「こうすれば、ああなるだろう」という発想です。〈真・宗〉の意味空間で言えば、「自力」となります。そして「従果向因」は「果より因へ向かう」ことで、結果から因へ、つまり、次の質問、「5、「聞いて『成る』のではなく、『成っとること』を聞け」です。もう既に、ある「身の事実」です。そこに救いが届いているということです。「救い」とは、必ずしも、自分の思い通りになることではありません。いままで苦しかったことが楽になることでもありません。苦しいことは苦しいままです。苦しいことが苦しいままで成り立たなければ、それは「救い」ではありません。人間は、「現状の変更」、それも「現状の好転」しか「救い」とは感じません。それを操っているのが「貪欲(とんよく)」です。人間は、「貪欲」の好みで「救い」を感じる生き物です。「貪欲」は、現状の「あるがまま」を「快(楽・好都合)/不快(苦・不都合)」と判断し、そのうちの「快(楽・好都合)」のみを「救い」と考えます。「従果向因」とは、「そのまま」、「あるがまま」に「救い」を成り立たせることですから、「従因向果」とは逆向きです。
これは以前にも紹介しましたが、安田理深先生の言葉が手がかりになるでしょう。
「仏智とは血も涙もないということではないが、しかし血も涙もあるというものでもない。そこに一点の人間的残滓(ざんし)もないものである。だからこそ、人間を根底的に明らかにし得るのである。信仰は無漏(むろ)の無漏たるところである。血も涙もない冷たいものでもなく、また温かいものでもない。そういう知恵が与えられることによって、冷たいことと温かいこととの間に動揺している人間が、初めて独立することができるのである。」(『安田理深選集』第10巻p129)
言い換えれば、「救いとは、血も涙もないということではないが、しかし血も涙もあるというものでもない。」となります。この「血も涙もあるというものでもない」という意味は、「貪欲」の思い描くような「救い」でも、また「貪欲」が思い描くような「不快(苦・不都合)」でもないということです。それだからと言って、「血も涙もないということではない」のです。それを『歎異抄』(第四条)の言葉で言えば、「聖道の慈悲」ではなく、「浄土の慈悲」があるということになります。「聖道の慈悲」とは、「貪欲の意識が感じる慈悲」ですが、「浄土の慈悲」は、その「貪欲の騙しを見破った慈悲」ということです。それをあえて「慈悲」という温もりのある言葉で表現するのです。だから、安田先生は、「そこに一点の人間的残滓(ざんし)もないものである。」と獅子吼(ししく)されています。「人間的残滓」とは、「貪欲」を完膚なきまでに見破ったという意味です。見破ることで、「冷たいことと温かいこととの間に動揺している人間が、初めて独立することができる」のです。
阿闍世(あじゃせ)が、地獄に落ちても後悔しないと言った「無根(むこん)の信」が、その表明でしょう。地獄を拒否し浄土を願って救われたのではありません。地獄に落ちても後悔なしというところに救いが成り立ったのです。それは地獄も浄土も、共に貪欲が描いた幻想だと目覚めることで、「地獄と浄土」と絶縁できるのです。この絶縁の断面を「救い」というわけです。人間の「思い」の絶縁された世界。この絶縁を「救い」だとは思えないのですが、実はこれが救いなのです。人間の想像もできないこと以外に「救い」はありません。
ですから、「貪欲」で生きている人間にとって、「従果向因」は「非常識」としてしか受け取れないのです。ただ、「非常識」こそが「常識」だったのかと逆転されるのも阿弥陀さんの妙技ではないでしょうか。
5、「聞いて『成る』のではなく、『成っとること』を聞けという法話を聞き、身の事実という言葉を思い出しました。ありがとうございます。
●武田→ 「身の事実」とはよい言葉ですね。「身の事実」とは、自分がすでに知っている「身の事実」ではありません。決して、人間の「思い」が届かない世界という意味です。この肉体を見ても、自分が作った部分は何一つありません。すべてが「お与え」です。こんなに自分の「思い」を超えた「自然」はありませんね。一番身近な「自然」が、この身体です。いわば、この身体は、「法の器(うつわ)」であり、自分の所有物ではありません。法が展開している法性のありのままです。ですから、自分の思い通りにはなりません。身体は親切ですから、ある程度は「思い」に寄り添ってくれます。しかし、ギリギリの「老病死」には、寄り添ってくれません。「身体が一つも自分の思い通りにはならない」という表現は、覚りの言葉ではないでしょうか。いわば、この「身体」は、自分を超えて与えられている「阿弥陀さん」でしょう。この「身体」と成っている事実を聞けということは、この「身体」をこそ「阿弥陀さん」として受け取り直せということでもありましょう。どこまでも「自分の身体」と錯覚している事実を、どこまでも、「非所有物」だと批判してくるのです。この「身体」が「いま・ここ・私」として存在している(いのち)の背景に目を向けてみれば、〈永遠〉という背景が浮かび上がってきます。どこにも、自分の意図が混じってはいません。これは、いまここで、つねに「奇跡」が起こっているということです。
6、今日のお話は、とても長かったので、家に帰ってからじっくり復習したいと思っています。ありがとうございました。
●武田→ この法座は、一般の法話会とは少し違っています。「正信偈に学ぶ」というテーマがありますので、講座形式です。その都度、テーマを決めてテキストに沿ってお話するので、どうしても話が長くなります。ただ枝葉の部分は聞き捨てて、根幹の部分だけに注目していただければ、それで結構なのです。根幹の部分とは、「南無阿弥陀仏」という六字の意味です。これについてだけお話ししていますので、そこに焦点を当ててお聞き下さればと思います。親鸞聖人の主著、『教行信証』も、結局は「南無阿弥陀仏」について語っているに過ぎません。六字という単純な「名号」です。この単純なものを説明するとなると、膨大な言葉が必要なのです。またどれだけ説明しても、決して六字の全体を説明すことはできません。ですから、無尽蔵の表現を生むものが南無阿弥陀仏です。単純なものほど、表現は無尽蔵です。水の味など、いくら言葉で表しても、決して言い尽くすことができないようなものです。
まず、この法座にご参加されたこと、そこにもうすでに阿弥陀さんがはたらいているのです。その「身の事実」を味わっていただければ幸いです。あとの話は聞き流し、聞き捨てて下さればよいのです。私は「聴聞は砂金(さきん)探し」と言っています。砂金は土や砂に混じって、微かに存在するものですから、ザルに砂を入れ、それを何度も、何度も水にさらしていきます。何度も水にさらすことで、砂は流され、そこに微かに残った金を取り出します。私も金山でさせてもらったことがありますが、これがなかなか金に巡り会えないのです。何度も何度も水にさらして、ようやくほんのわずかの金に巡り会えました。
これは聴聞と似ているなと思いました。ですから、どんな話でもとにかく、砂をザルに入れ、水にさらすように何度も聞いていくことです。だから、どんどん忘れて下さい。覚える必要は、まったくありません。また覚えようと思っても、法話は覚えられるものではありません。そんなものは、娑婆で生活するときに何の役にも立ちません。しかし、娑婆で生活する中で、フッと、「このことを言っているのではないか」とか、仏法に捕まれることが起こることもあるのです。仏法聴聞とは、普段の意識よりも深いところで聞くものですから、ほとんど無意識の領域のものです。真宗は、無意識を育てるものでもあります。ですから、法座のそこに、ただ座っておられれば、それでよいのです。