親鸞聖人は『尊号真像銘文』に第十八願文を記している。しかも末尾の「誹謗正法」の「法」の字を「灋」と書いている。『教行信証』では「法」と書いているが、ここでは「灋」という見慣れない文字で書いている。それで、『大字典』(講談社)で、その字を調べてみた。
すると、「灋」が本字であって、「法」は略字だということが分かった。まさか、この字が本字だとも知らず、今さらながら勉強不足を思い知らされた。
この「灋」という文字は、三つのパーツから出来ていた。
❶サンズイと、❷廌と❸去の合字だそうだ。
意味は、
❶サンズイは「水」を表し、「その面平にして、公平の義」とあった。確かに水面は平らであり凹凸はなく、平等性を表している。
❷「去」は、「悪を去り善に就かしめる意」だそうだ。悪をやめさせて、善に変えなす意味が「去」だそうだ。
❸「廌」は、「一種の神獣で、性罪を知る、故に、これに触れしむれば、直に罪の有無を知る」とあった。
この神獣は、そのひとに罪があるかないかを判断できる神話上の生き物らしい。この神獣の角に触れると、そのひとに罪があるかないかを即座に判明できるという。
この3つのパーツが組み合わされて出来上がっているのが、「灋」という文字なのだ。
そう思うと、実に意味深長な文字だ。
もともと中国で発明された漢字は、中国思想の中で培われてきた文字である。つまり、表意文字という文化だ。ところが、仏教は、当初、音声言語のみで伝承されていた。やがて「結集」という方法を経て文字言語へ移し替えられてきたらしい。
ただ、インドは、インドヨーロッパ語族と言われ、アルファベットで表記する表音文字文化だ。つまり、文字そのものに表意文字ほどの意味はなく、発音の仕方で意味を表現する。
インドの「dharma」という表音文字を、中国の表意文字へ翻訳するという難題を、当時の翻訳僧たちは背負った。その場合、意味で訳すこと(意訳)と、音で訳すこと(音写)に分けざるを得なかった。音写は、表音文字の発音を漢語に似た発音を当てるのだから、そう難しくはないだろう。そこで「dharma」を「達磨」と当てた。
しかし意訳は、そうはいかない。今までインドで「dharma」という言葉で表現されてきた意味を中国文化の意味と摺り合わせ、近似値を見つけて訳さなければならないからだ。もともと、インドと中国とに共通の概念があれば、それも容易だが、お互いに共通の概念がないのであれば、これは難しいことになる。
「法(dharma)」を『仏教語大辞典』(中村元)で調べると、膨大な意味が書かれている。「インド一般に、次のような意義で使われている。①慣例。習慣。風習。行為の規範。②なすべきこと。つとめ。義務。ことわりのみち。③社会的秩序。社会制度。④善。善い行為。徳。⑤真理。真実。理法。普遍的意義のあることわり。⑥全世界の根底。⑦宗教的義務。⑧真理の認識の規範、法則。⑨教え。教説。⑩本質。本姓。属性。性質。特質。特性。構成要素。」等と意味が記されている。
これらの意味を翻訳僧は、「灋」という一語で訳したのだ。これが略字の「法」であれば、差ほどの重みを感じないが、「灋」は確かに重層的な意味を醸し出す。文字の構成で考えれば、「サンズイと去」を残し、「廌」を削除しただけだが、何か大切なものを置き忘れてしまったような感じになる。「廌」は「神話上の生き物」だそうだが、この神獣を削除したことで、神話という深みを消してしまったのかも知れない。
これからは「法」という文字を見るたびに、「灋」が思い出されることになるだろう。