自分は見えない

「自分は見えない」。改めて、今朝のお朝事で感得した。そもそも、「自分」を知っているというところから、あらゆる問題が起こってくる。正しく言えば、「自分の知っている自分」しか知らない。それ以外の、つまり「自分の知らない自分」は 、知りようがない。 でも、「自分の知らない自分」などあるのか。長年付き合っていれば、「自分の知らない自分」など無いかのように思ってしまう。
 でも、なぜ人間として生まれてきたのか、なぜ男という性別で生まれてきたのか、そして何のために生きているのか、何のために死んでいくのか、いったい自分は何を本当にしたいのか、なぜ私は私でなければならなかったのか、様々な疑問が噴出してきて、どれ一つにも満足に答えることができない。
 そもそも、「自分」は「自分の思い」から出発していないのだから、分からないのは当たり前だ。生まれて、気がついたところから、「自分という思い」が目覚めるので、それ以前の「自分」など知りようがない。そして、長年生きてくると、様々な「自分」と出会い、「自分」というものを教えられてきた。だから、もう「自分」などというものは、うんざりするくらいに知っていると思い込んでいる。
 でも、それは「自分の知っている自分」のことであって、「自分の知らない自分」ではない。「自分の知っている自分」が90%で、「自分の知らない自分」が10%だと思っていたのだが、今朝、この割合が逆転してしまった。この逆転が起こると、なんだか晴れ晴れとした感覚に包まれた。「自分の知らない自分」が90%だから、まさに未知との遭遇だ。
 やはり、人間の「知ったこと」というのは、腐っていくものだ。もう「分かった」ことだから、それは安心して見ることができるという御利益はある。でも、それはやがて、腐っていく。知は腐っていくものだ。腐っていくと腐敗臭がしてきて、自分の周りに悪臭をまき散らす。自分でも、腐敗臭にうんざりする。
 「分かってしまったこと」の一番の問題は、分かってしまったことに人間はときめかないという闇だ。知ってしまったことに驚くことがない。つまり、救いがないのだ。これが知というものの、哀れな結末だ。
 この知が未知へと逆転されるということが起こる。そしていままで「自分の知っている自分」を捨てることができた。そして、「自分の知らない自分」が復活する。
 誤解を恐れずに言えば、この「自分の知らない自分」とは、「真如本性身」(正信偈)である。「自分の知らない自分」とは、自分が知らないのだから、そんなものを見ることも触ることもできない。自分が触れたり、知り得る自分とは、「真如本性身」の残像だけだ。まあ「真如本性身」というと偉そうに聞こえるが、正しく言えば、「自分の知らない自分」のことだ。
 鏡で自分の顔を見る。それは自分の知っている自分に変質する。ただ見ている自分は見ることができない。それを実行すると、唯識で言うところの「合わせ鏡」になる。自分の前と後ろに大きな鏡を置いて、それに自分の姿を映してみると、前面の鏡に映った自分が後ろの鏡に映り、無限に自己像が連続する。その中に「本当の自分」を見いだそうとしても無駄だ。どれも自分であって、どれも自分ではないからだ。
 それを遂行するすることを諦めたとき、「本当の自分」を追い求めようとする知の息の根が止まる。そもそも、自分など自分では知ることができないのだと諦める。この「そもそも」という感覚が大切だ。「そもそも」とは、物事の本質というか、本来性であり、究極を表す。
 いつも言うことだが、何かを考えたとして、何かを考えた後でしか、何を考えようとしていたかを知ることができない。何かを思おうとして思ったとしても、思った後でしか何を思おうとしていたかが分からない。「自由意志」などという用語もあるが、この「自由」の始発点をどこに置くかで変わってしまう。「自由」とは、自分の思い、意志を始発点として考えているのだろう。
 しかし、本質は、「さるべき業縁のもよお」し(歎異抄第十三条)だから、自分が始発点ではない。自分が始発点にないというと、すぐに、それは運命論かと跳ね返ろうとする。運命論という発想も、自分(人間)を始発点にした発想の変形でしかない。運命というものが外にあって、それが自分を操るのだと発想する。たとえ、それが運命であろうとも、それはともに「さるべき業縁のもよお」しでしかない。よく考えると、運命論という発想も、結局は「利害損得心」から生まれた幻想である。運命を利害で着色し、結局、地獄を恐れる発想になる。
 「自分の知らない自分」とは、「悪をもおそるべからず」(歎異抄第一条)という世界にある。次の瞬間に何を思い、何を行為するのか、それが自分には知らされていない。だから、自分に対する自重ということも生まれる。自分というものを丁寧に扱うということが始まる。
 別の言い方をすれば、「阿弥陀さんの言いなりになる」ということだ。別に「阿弥陀さん」という絶対者がいて、それの言いなりになるという意味ではない。〈真・宗〉は、縁起(関係性)の宗教だから、そんな実体があるわけではない。縁起(関係性)を、人格的に表現しただけのものだ。太陽を、「おひさま」と呼ぶのと、そうは変わらない。
 本質的に、自分は「自分という思い」から出発してはいない。自己存在がこの世に誕生した背景を考えれば、生物誕生の三十八億年にまで遡れる。そこからどこにも切れ目がなく自分にまでつながって来ているのが、自己の身体である。この身体は、全生物の進化の過程を経過してきた。アメーバのような原生生物だった頃の身体、そいて植物だった頃の身体、やがて自己増殖できないので、他の生物を捕食する動物に変化し現在にまで到っている。この身体は地球そのもの、世界そのものではないか。
 だから、自然を見るために山野へ行く必要はない。こんなに身近なところに自然があるのだ。それが我が身体である。目で見るよりももっと近いところに。これこそ、「自分の知らない自分」でなくて何であろうか。