「一果無量縁」とは、結果はたった一つだが、その結果が出るための縁(条件)は無量無数にあるという意味だ。
先日、逗子で、歩道を歩いていた女子高生が側面の崖が崩れて亡くなった。あと一分ずれていれば彼女は巻き込まれなかったに違いない。
学校に忘れ物を取りに帰っていれば、あるいは友達と約束をし忘れていて、立ち止まってメールでもいていれば、あの場所にはいなかったのでは。あと数秒ずれていればと、ついつい考えてしまう。
しかし、「一果」は残酷だ。たった一つの結果しか選べないから。亡くなった彼女は、慟哭するほどに可哀想だが、この世に残された家族は、もっと残酷かもしれない。これから一生、この惨劇とともに生きていかなければならないから。
それでも遺族は、もっとこうしておけば、もっとああしておけばよかったのではないかと考えてしまう。そう考えるなといっても、つい頭をよぎってしまう。どうしても、「善因楽果、悪因苦果」という発想がこびりついているから。この世は、「一果一因」で成り立ってはいない。「一果無量縁」だ。それが人間にはわからない。
苦しみに同伴できるのは人間ではない。阿弥陀さんだけだ。
「涙には涙に宿る仏あり」だ。涙の一粒一粒に阿弥陀さんが宿っていて、涙を流す人間と同伴し、同悲して下さる。
最後は、亡くなった彼女と一緒に救われていく道が開かれねばならない。それしかない。