我々、生者から見れば、そのひとの「死」は、生者の世界から「他界」へと一人で旅立ったと見える。つまり、そのひとが一人、消えたと見える。しかし、そのひとから見れば、生者の世界が消えたとも言い得る。そのひとの見る世界から、我々が消えたのだ。見る「立場(point of view)」を変えてみれば、まったく違った世界が見えてくる。
生者は、つい「我々」という言葉を使ってしまうので、その「立場」の違いが見えなくなる。この世界は、「我々」の世界という面と、「一人一人」の世界という面が同居している。そして突き詰めて見れば、「見る」ということの基本が、「一人一人」の「立場」であることが分かる。この「世界」と言うときのこの「世界」とは、「自己一人」が見ている「景色」以外にはないからだ。
ただ、生物分類上の類が同じものだから、「世界」が同じように見えてしまう。同じように見えるけれども、決して「同じ」ではない。そのことは、「死」と関係している。仏教では「生老病死」と言って、それが「代替え不能の一人」の上に起こることを、つねに語ってきた。「生老病死」は誰の上にでも起こることだと思われているが、本当は、「一人」以外のところには起こらない現象である。この徹底した「一人性」をごまかすことはない。
それが私の言う〈一人一世界〉だ。これは実に孤独な世界だと言われそうだが、孤独とは大勢を想定したところから生まれる妄想である。私の言う〈一人一世界〉は、本来性であり、誰しも、それ以外を生きることのできない世界のことを言っている。また本来、その世界をのみ生きてきたのだ。だから、孤独という言葉がまとっている「寂しさ」という観念とは相容れない。もっと静かなものであり、平凡なものでもある。
この四月十五日の朝、突然、左膝に痛みを感じるようになった。筋や筋肉ではなく、左膝のお皿の中が痛い。その痛みも触ってみると、お皿の左端が痛かったり、真ん中が痛かったりする。寝ていても違和感がある。以前から、右膝が悪かったので、同じような現象が、左足にも起こったものと想像した。平行移動は、辛うじて出来るのだが、階段が、まったく駄目だ。左膝を曲げて力を入れようとすると、痛みが走った。
若いときには、身体が思いに同伴してくれるので、まるで身体がないかのように思いのままに動いてくれる。譬喩的に言えば、「身体がない」のだ。だがこの世の生存期間が長くなると、身体が思いに沿わなくなってくる。そこに違和感が生まれることで、身体をつねに意識しなければならなくなる。身体の意識化という現象が、「老い」なのかもしれない。いままで無意識だった身体、あっても無きが如き身体が、意識の方へと浸食してくる。
人間にとって、一番身近な「自然」とは身体である。野山は遠いが、身体は近い。「自然」とは、人間の思いが届かない「外」という意味だ。この「外」が私の身体ということになると、いままで「内」だと思っていた身体が、本当は「内」ではなかったことを訴えてくる。
これは面白いことになってきた。身体という「外」こそが、「内」を支えていたのだ。それでは「内」とはどこにあるのか。実体的に「内」などどこにもないのだ。自分にとって間違いなく「在る」のは、「外」という身体のみである。しかし、その「外」なる身体を「内」と思うのは、間違いなく「思い」である。「思い」が、「外」を「内」だと錯覚する。「思い」は、その身体のどこかに「思い」があるのではないかと思い、身体を解体した。それで「心臓」や「脳」を「思い」の発生源と突き止めた。しかし、それを切り取ってみても、どこにも「思い」は存在しなかった。
「構造」は見えても、「循環」は見えないと語った養老孟司さんは、正しい。木村敏さん風に言えば、「モノは見えても、コトは見えない」だ。
今風に言えば、「肉体は見えても、こころは見えない」だ。
「仏教の心理学」、あるいは「仏教の存在論」と呼べる「唯識」思想は、その「内」と考えるものも、「外」だと考えた。つまり、「思い」というものも、実は「外」だったと。「思い」は「思い」の自由に考えていると、それこそ思い込んでいる。しかし、「思い」も、自由に考えているわけではなく、「思い」の「外」からやってくることを発見した。
「思い」の側から言えば、「思わされて思っている」ということになる。「思い」は、「外」なる深層意識から始動されて表層へ浮上し、「思い」として成り立つことで、「思い」として自覚されると。ちょうど、火山が噴火するとき、深部のマグマが表層の火口にまで達し、それが空気中へ噴き出される。「思い」というものも同じ構造だと言うのだ。
安田理深先生は「我々はするのでも、しないのでもなく、せしめられている。人間が生きているのは、分別で生きていると思っているが、それは思いであって、生の事実を解釈しているだけなのである。」(『安田理深選集』第11巻)と述べている。私が「現実を生きている」と思っている、その「現実」とは、「本当の現実」ではなく、「解釈された現実」とおっしゃる。それも「せしめられている」解釈なのだ。
まあここに救いがある。もし「現実」が、絶対的なものであり、決して動かないものであるなら、人間には「救い」はない。しかし、それはどこまでも「人間の解釈」となれば、「解釈」を変えれば「現実」が変わるのだから、それがどれほど「悲惨な現実」であろうとも、それが変わる可能性を秘めている。人間には「解釈」しかないのだから。
いや違う、「現実」は「現実」だ言い張り、「解釈」という考えを許さない発想は暴力を生む。太平洋戦時下では、「天皇」は「神」であり、それが「現実」だと強要された。それは人間が、そう言っているだけのことであって、我々と同じ凡夫であると主張したらどうだろうか。所詮、「天皇」も「凡夫」も、ともに人間の「解釈」だと言ったら、間違いなく粛正されるだろう。
しかしとても厄介なのは、それが、「解釈」だと見えないところだ。なぜならば、それは「せしめられている」解釈だからだ。「解釈」だからと言って、自由に「解釈」しているわけではない。それは深層意識から、そのようにしか受け取れないと強要された解釈だからだ。「解釈」だから、すぐに変えられるかといったら、間違いだ。人間の「解釈」には、それほどまでに強固な規制が掛けられている。だから、敗戦になるまで、「解釈」が「解釈」だと見える人間は少なかった。
話がおかしな方向に進んだが、もとに戻せば、「死」ということも、「現実」ではなく「解釈」なのだ。もっと言えば、「生」と「死」は同じ「解釈」の範疇にあるから、「死」が解釈ならば、「生」も解釈なのである。どこまでも、それが「解釈」だと分かれば、そこに改変の可能性が生まれる。
それにしても、「思い」が自分にとっては「外」からやってくるものということになると、「自分」という実体も本来、無いということになる。「せしめられている」は受動態、であり、「せしめている」のが能動態だ。この受動と能動が「自己」という無実体の上で躍動している。これを「生きる」と命名してよいのだろうか。まあ、一般的に言えば、それを「生きる」と命名するのだが、厳密に言うと「生きる/死ぬ」は同じ意味から派生する相対概念なので、それは使えない。これは困ったことになった。
そうか、まだ名前がないのか。我々が「生きる/死ぬ」と言っているところの本当の姿は、見えないものなのだ。見えないのだから、名前のないのは当たり前だ。これは実に面白いことになってきた。