「動的平衡」と「利他」

 分子生物学者として有名な福岡伸一博士が、『動的平衡は利他に通じる』(朝日新書)を出された。これは朝日新聞に連載されていたコラム「ゆく川の流れは、動的平衡」を改題してまとめられたものだ。
 コラムのテーマを今回、どのような理由で改めれたのかをご自身が、このように書いている。「ここ数年来、私の問題意識がそのように移りかわってきたからである」と。それを丁寧に追ってみたい。
 博士が、以前から「動的平衡」という言葉をキーワードにしておられることは周知のことだ。生命は、固定的に存在しているわけではなく、ゆく川の流れの如く、つねに動いている。身体を構成する何十兆という細胞は、この瞬間にも「新陳代謝」を繰り返している。そしてこの世へ誕生した生命は、しばらくしたら生命活動を停止し、再び誕生以前の状態へと戻っていく。だから、この生命は「動的」であり、しばらくの間、この世で「平衡状態」を保っているに過ぎない。「平衡」とは、入力と出力が釣り合っている状態のことで、「状態」は常に変化してはいるのだが、その「総体」は変化しているようには見えないことだ。私は「動的平衡」を、そのように理解している。
 そのことがとてもよく分かる話が、まさに『動的平衡』(木楽舎2009年)に書かれていた。
「彼(ルドルフ・シェーンハイマー)は、当時ちょうど手に入れることが出来たアイソトープ(同位体)を使って、アミノ酸に標識をつけた。そして、これをマウスに三日間、食べさせてみた。アイソトープ標識は分子の行方をトレースするのに好都合な目印となるのである。
 アミノ酸はマウスの体内で燃やされてエネルギーとなり、燃えカスは呼気や尿となって速やかに排泄されるだろうと彼は予想した。結果は予想を鮮やかに裏切っていた。
 標識アミノ酸は瞬く間にマウスの全身に散らばり、その半分以上が、脳、筋肉、消化管、肝臓、膵臓、脾臓、血液などありとあらゆる臓器や組織を構成するタンパク質の一部となっていたのである。そして、三日の間、マウスの体重は増えていなかった。
 これはいったい何を意味しているのか。マウスの身体を構成していたタンパク質は、三日間のうちに、食事由来のアミノ酸に置き換えられ、その分、身体を構成していたタンパク質は捨てられたということである。
 標識アミノ酸は、ちょうどインクを川に垂らしたように、「流れ」の存在とその速さを目に見えるものにしてくれたのである。つまり、私たちの生命を構成している分子は、プラモデルのような静的なパーツではなく、例外なく絶え間ない分解と再構成のダイナミズムの中にあるという画期的な大発見がこの時なされたのだった。
 まったく比喩ではなく、生命は行く川のごとく流れの中にあり、私たちが食べ続けなければならない理由は、この流れを止めないためだったのだ。そして、さらに重要なのは、この分子の流れが、流れながらも全体として秩序を維持するため、相互に関係性を保っているということだ。」
 これを読んだとき、私はいままで自分の身体を「機械」のように考えていたことを反省させられた。食べることは、「機械」の燃料を注ぎ込むことで、エネルギーを運動に変えていると思っていた。しかし、食べることは、身体のあらゆる部分(臓器)に一気に広がり、あらゆる臓器を構成するタンパク質と置き換えられることだったのだ。
 博士は、新書に、こう書いている。
「物質(非生命体)は、宇宙の大原則であるエントロピー増大の法則に身を任せざるを得ない。秩序あるものは無秩序になる方向にしか変化しない。形あるものは崩れ、濃度が高いものは拡散し、高温のものは冷え、金属はさびる。建造物も長い年月のうちに傷み壊れゆくし、整理整頓しておいた机や部屋も散らかっていく。これはエントロピーが増大する方向にしか物事は変化しないという法則の必然的な帰結である。」と。
 しかし、この流れにしばらくの間、抗うのが「生命」だという。
「生命は、エントロピー増大の法則を「先回り」して、あえて自ら積極的に破壊を行っている。そのことでエントロピー増大の法則の進行を一瞬、追い越しているのだ。」と。
「秩序はそれが守られるためにまず壊される。システムは、変わらないために変わり続ける。生命のこの営み、分解と合成という相反することを同時に行い、しかも分解を「先回り」して行うこと、これを「動的平衡」と呼ぶことにした。流れの中にあって絶えず動きつつ、危ういバランスを保つこと。動的平衡は、新陳代謝ではない。新陳代謝は、古いものが捨てられ、新しいものが作られるということだが、動的平衡は、新しいものでも積極的に壊すことに意味があるとする概念。」
 この「新しいものでも積極的に壊す」ということが分かりにくいが、それを博士は「細胞自身もアポトーシスという自殺プログラムによって躊躇なく自壊し、交換されていっている。」と説明している。
 アポトーシスとは、細胞自身があらかじめ自壊するためのプログラムがなされているということだ。胎児が母体の胎内で成長し、手の指がどのように作られるかという話を聞いて驚いたことがある。普通は、シャモジのような手の形をしたものが伸びてきて、そのシャモジのような物から、徐々に指が伸びてきて、やがて五本の指が形成されると考える。ところが事実は、そうではないのだ。シャモジのようなものが伸びてくるところまでは同じでも、そこから指が生えてくる訳ではない。その五本の指と指の間の細胞が死滅して、つまりアポトーシスを起し、五本の指が形作られる。もしアポトーシスがなければ、指が形成されない。このアポトーシスが細胞のあちこちで行われることで、人体が人体として形成される。
 我々の身体に「寿命」があるというのも、このアポトーシスにプログラムされたものなのだろう。
 博士は、「本書の単行本刊行にあたって、動的平衡をめぐる私のエッセイ集に『ゆく川の流れは、動的平衡』というタイトルをつけた。しかし、その後で、これでは生命の流れをすべて言いきったことにはならない、と感じるようになった。つまり動的平衡の流れには行く末がある。」と語られる。
 彼は、時あたかも、大阪・関西万博でテーマ事業プロデューサーを任されたそうだ。そこで「いのち動的平衡館」というパビリオンを建設し、「『いのち』が太古から途切れなく続く動的平衡の流れであり、私たちの生命もその流れに連なるものであることを体感できる展示の設計を進めた。すると必然的に、私たちの『いのち』はどこへ行くのか、という動的平衡の流れの行く末を示さなければならない。」という論理的必然性に答えなければならなくなった。
 その応答が「生命の利他性」という言葉として結晶化された。
「私たちの『いのち』は、栄養素や酸素など微粒子の流れとして他の生命体から手渡された集合体が、一瞬、エントロピー増大の法則にあらがう動的平衡として立ち上がることによって成立する。そして私たちのいのちを形作る微粒子は、生きている最中も呼気や排泄物の形で、そして「あらがい」が最後にはエントロピー増大の法則に負けたあと、つまり死後も――、死骸の有機物として、絶えず環境の中に戻される。生命を形作る生体物質は、たんぱく質にせよ、DNAにせよ、あらかじめ分解されることを予定して作られている。そして分解されたあと、他の生命体によって再利用されることが予定されている。たんぱく質を構成するアミノ酸はまた他の生命体に手渡されて新たなたんぱく質になり、DNAを構成するヌクレオチドもそうである。栄養素(有機物)の燃焼産物である二酸化炭素と水も植物によってもう一度有機物に作り変えられる。生命の基本原理は、絶えず他者に何かを手渡し続けること、ストックではなくフローをし続けることによって支えられている。これは利他性、あるいは相補性といってよい互恵的な関係性である。つまり動的平衡は利他性によって支えられている。進化の過程においても、たとえば細胞が複雑化したこと――原核細胞が、ミトコンドリアや葉緑体を有した真核細胞の出現、オスとメスの出現もまた分担や相互補完による利他性の現れによる。進化は決して利己的遺伝子の独壇場ではなく、利他的共生が織りなしたものなのである。」
 以上が、このエッセイのテーマを「動的平衡は利他に通じる」と書き改められた博士の動機だそうだ。
 しかし、これらを読んでみると、これは仏教が二千五百年まえから説いてきた、「縁起」ということを別の表現で表したものではないか。あらゆる存在は、すべてが縁(関係性)で成り立っているのであり、固定した事物は存在しないという意味だ。
 しかし、それを「利他」という言葉で取り出されたところが、博士の着眼点だと思う。本文でも、「利己的遺伝子の独壇場」という言葉があり、「遺伝子の呪縛」とさえ言う。「それは、争え、奪え、縄張りを作れ、そして自分だけが増えよ、という利己的な命令である。これに対して、争うのではなく協力し、奪うのではなく分け与え、縄張りをなくして交流し、自分だけの利益を超えて共生すること、つまり遺伝子の呪縛からの自由こそ、新しい価値を見いだした初めての生命体がヒトなのである。(略)国境という人工の線をなくし、人々の往来と交流を促進し、共存を目指したのがEUの理念であったのなら、それは遺伝子の束縛から一歩を踏み出した生命観にかなっていた。今回それがいささか逆行したかのように見えるのは残念なことだ。でも私はそれほど心配しない。押せば押し返し、沈めようとすれば浮かび上がる。そうして本来のバランスを求めるのが生命の動的平衡だから。」 今回のトランプ大統領に見る「自国唯一主義」を、「遺伝子の呪縛」と見れば、この流れに棹さし、抗おうとしているのが生命体自身が本来持っている「動的平衡」力なのだろう。
 遺伝子を「自己」と見なせば、これは増殖し繁栄することが望ましいに違いない。しかし、それは自分と同じ仲間のみを増やしていくことになり、やがて自滅する。もし生命体がメスだけだったならば、メス自身が増殖し、却ってメス自身が自滅したのだろう。そこに異物としてのオスを生み出すことで、初めてメスが繁栄するというシステムを遺伝子自身が開発した。つまり、自が自として成り立つためには、異物としての他が不可欠なのだ。それはあらゆる存在が「縁起」でしか成り立っていないからだ。
 ここまで書いてきて、自分がなぜこのようなことを書こうと思ったのかという原初の動機に伺いを立ててみた。ここまでのことは、あくまで外堀であり、まだ動機の本陣に到り着いていない。私が書こうとしていたものは何だったのだろう。
 それを深掘りしてみたら、「利他」という言葉が「仏教語」であり、さらにこの語が「物語性」から生まれた言葉ということに行き着くようだ。
 そもそも「利他」という言葉は、「自利」という言葉の対概念だ。つまり、「他を利する」と「自を利する」という反対の意味を持っている。しかし、「縁起」という視点を採ってみれば、どちらか一方を「自」とし、何を「他」とするかは、あくまで恣意的なことになる。「縁起」を「因」と「果」に分けて説明する場合もあるが、「因」と言っても本質は「縁(関係性)」以外にはないのだ。
 博士が「生命の基本原理は、絶えず他者に何かを手渡し続けること」という場合の「他者」とは、「他の物質」という意味だろう。それは「死」すらも、地球上にある「他の物質」への「手渡し」ということになり、あるのは「動的平衡」のみ、つまり「運動」のみというということになる。
 ここまで降りてくると、そもそも「自」なるものがあるのかと、言いたくなる。「自」と見えるものの本質は、「他」そのものではないか。いや、「他」と見えるものの本質が「自」なのかも知れない。どちらを「自」とし、どちらを「他」とするかは、あくまでも恣意性で成り立っている。
 生命体を分子のレベルに解体していけば「自」も「他」もなくなる。あるのは「関係性」のみだ。つまり、博士が「動的平衡」の「行く末」を示したいと願った、「行く末」を問い詰めていけば、やはり「動的平衡」そのものが答えなのではないか。この「動的平衡」の或る面を切り取ってみれば、そこに「利他」性が浮かび上がって見えるということなのではなかろうか。
 それはともかく、「動的平衡」の「行く末」を「利他」という「仏教語」で表現しようとされた博士の直観が輝いている。「動的平衡」には、本来「自利」も「利他」もない。しかし、それを、敢えて「利他」という「物語性」の用語で取り上げられたところが目を引くところだ。
 つまり、「自」は「凝固・固定・固体・実体・閉塞」という意味群へと傾斜しやすい言葉だが、それは観念の世界であり、生物の本来性は、「溶解・流動・波動・変化・解放」という意味群へと誘う。それを敢えて「利他」と表現されたところが素晴らしいところだ。生物の本質は、「動的平衡」であり、「利他」的なあり方以外では成り立っていないのだ。それを生物の本来性であり、「動的平衡」の「行く末」として博士は受け止められたのだろう。