慶讃法要の法話の穴埋め

 昨日は、東京教区主催の「親鸞聖人御誕生八百五十年・立教開宗八百年慶讃法要」の法話を担当した。会場は練馬区(谷原)にある「真宗会館」だった。一時間ほどの法話だったが、木目の粗い法話だったと反省させられた。まあ、これも私を超えた出来事だから、反省するのもおこがましいことだが、反省するというのも「凡夫のならい」だから仕方がない。
 そこで、昨日の法話で抜けてしまったことを埋めたいという衝動がせり上がってきたので、ここに「文字」として定着させてみたい。
 昨日の法話で伝えたかったことは、「慶讃」ということの二面性だった。「慶讃」とは、「教え」に出会ったことの慶び、そしてその慶びを讃えるという意味になる。こうなると、自分はどのようにして「教え」に出遇ったのかとお話しなければならない。確かに、この「教え」に出遇うことがなければ、私は私としてここに存在していないのだから、これはとてつもなく希有なことであり、「慶讃」せざるを得ない出来事だ。
 親鸞も「ああ、弘誓の強縁多生にも値いがたく、真実の浄信、億劫にも獲がたし」(『教行信証』総序)と〈真・宗〉に出遇ったことを慶んでいる。しかし、慶びは、その慶びだけに留まらない。慶びとは、出遇いの慶びであり、〈いま〉の感情である。しかし、それを振り返り慶んでいる〈いま〉は、必ず「過去」のこととして慶こぶことになる。
 我々の「経験」とは必ず、そういう形になる。慶びを「過去」のこととして慶んでいる自分に、「それでよいのか」と問いかけてくるものがある。それが「阿弥陀さん」という「反問性」だ。それは慶びであるに違いないのだが、そこに留まっている自己を「それは本当か」と問い返すはたらきに曝される。
 「慶び」という感情は大事だが、その「慶び」に留まっている自己を、「恥ずべし、傷むべし」(『教行信証』信巻)と批判するはたらきがやって来る。どれほどの「慶び」であろうとも、それを「過去」の経験として振り返ったときには、「悲しきかな、愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快しまざることを、恥ずべし、傷むべし」(同上)と吐露せざるを得ない。 「教え」に出遇った慶びを慶んではいけないということを言っているのではない。それは慶んでも慶び尽くせないものであるに違いない。しかし、その慶びの感情が、徐々に自己の深奥に染みてきたとき、それで「よし」として自己肯定し、自己保身している自分に出遇うのだ。そのときの悲しみの感情が、親鸞の独白である。
 「慶び」を、「愛欲」と「名利」でしか受け取れない自分を「恥ずべし、傷むべし」と披瀝したのだ。これは庄松(妙好人)の「なんともない」に通じるこころだ。
 庄松さんと興聖派本山の法主との問答である。法主が、「おまえは信心をいただいたか?」と問われたとき、庄松は「へえ頂きました」と応える。それで法主がさらに「その得られたすがたを一言申せ」と迫ると、庄松は「なんともない」と応え。さらに法主は、「それで後生の覚悟はよいか」と尋ねると、庄松は「それは阿弥陀さまに聞いたら早うわかる。我の仕事じゃなし、我に聞いたとて分かるものか」と応答している。(『庄松ありのままの記』)
 この「なんともない」の裏側には、それこそ〈真・宗〉に出遇った計り知れない慶びが張り付いているに違いない。親鸞が、「ああ、弘誓の強縁多生にも値いがたく」と慶ばざるを得なかったような感動である。しかし、その感情を吹き飛ばすようなはたらきによって、慶びの感情がきれいさっぱりと削ぎ落とされている。これが阿弥陀さんの生きたはたらきである。削ぎ落とされて「なんともない」と表白させられたのだ。
 その裏には、〈真・宗〉と出遇うための艱難辛苦の求道があったに違いないのだ。庄松は「周天」という僧侶に導かれて、〈真・宗〉へ出遇っていったそうだ。親鸞も、「急作急修して頭燃を灸うがごとくすれども、すべて『雑毒・雑修の善』と名づく。」(『教行信証』信巻)と述べているように、四六時中、〈真・宗〉とは何かと問い詰めていったに違いない。これはすさまじいほどの求道であったに違いない。それこそ比叡山の常行三昧堂での修行は筆舌に尽くしがたいものだったろう。しかし、それをやった結果、それは「雑毒・雑修の善」だと気がついたのだ。それは「善」のように見えるけれども、すべては「愛欲」と「名利」でしかなかったという懺悔である。
 だが、その懺悔で終わりかと言えば、そうではない。その懺悔を引き起こしてくるはたらきが、またあるのだ。「恥ずべし、傷むべし」という懺悔を引き起こしてくるものこそが、阿弥陀さんの「誓願」である。そこで「誓願」に出遇うのだから、讃嘆せざるを得ない。こうやって「讃嘆」と「懺悔」が繰り返し波動のように襲ってくる動態が〈真・宗〉というものだ。だから停滞することがない。
 「懺悔」とは、「絶望」という意味ではない。そもそも人間は「絶望」できない。「絶望した」と言っているけれども、それは当てが外れたくらいのことだ。絶望感は、絶望できないという呻きである。いわば、本当に絶望することが出来るのは、阿弥陀さんの「誓願」と出遇ったときだと言えるのではないか。それが庄松の「なんともない」という表白である。
 結論を言えば、「讃嘆」と「懺悔」とは〈真・宗〉の両面性である。「讃嘆」に裏打ちされない「懺悔」もなく、「懺悔」に裏打ちされない「讃嘆」もない。
 「もう済んだと思ったが、まだ始まっていなかった」という感慨が〈真・宗〉である。私たち人間には「通時的時間観念」があるので、どうしても「八百五十年」とか「八百年」という数字を契機にして、「慶讃法要」というイベントを行う。「報恩講」も、親鸞の「命日・11月28日」という数字があるので、それを契機として法要をお勤めする。
 しかし、イベントをするということには、「始まり」と「終わり」という時間が生まれる。本山の報恩講は、「一週間」、今回の慶讃法要は「五日間」であり、因速寺の報恩講は「一日」である。こうなると、その法要期間以外の時間はどうするかという問題が生まれてくる。イベントを行うことも準備や当日の様々な支度があり、法要が終わると、「やれやれ」という感情がやってくる。
 〈真・宗〉は四六時中のものであっても、人間には限界がある。この時間は法要の時間、それ以外は法要ではない時間と区切られる。つまり、いつでも、どこでも、誰でもであるはずの〈真・宗〉に区切りがつけられる。それこそ、〈真・宗〉を傷つけていることになる。阿弥陀さんは、時間と空間を超えて我々にはたらきかけれくるのに、そのはたらきを無碍にしている。そう思うと、報恩講という期間を設けてイベントを行うこと自体が、とても申し訳のないことをしているように感じる。つまり、イベントの日以外は、「報恩」ではない日としてしまうからだ。特別な日を設けることは、「特別大切な日」とすることなのだが、逆にそれは、特別ではない日を生み出すことになる。もし「報恩」をするのであれば、二十四時間、三百六十五日、行わなければならない。それが本当の「報恩講」だろう。
 でも、それが人間には出来ない。そこに「恥ずべし、傷むべし」が生まれる。
 この懺悔が生まれることによって、「もう済んだ」とは思わせない新鮮な仏法が回復され、いま、ここ、私から〈真・宗〉が始まる感動を覚える。私は、〈いま〉、新鮮な〈真・宗〉が始まる零度である。この〈いま〉は「永遠の今」である。
 通時的時間観念を超えた共時的時間が開かれる。「共時的時間」とは、「弥陀成仏のこのかたは、いまに十劫をへたまえり」(『三帖和讃』)と詠われている、〈いま〉のことだ。この〈いま〉は「十劫」という永遠を背景になり立っている〈いま〉であり、永遠なる未来をも包み込んでいる〈いま〉でもある。この〈いま〉が開かれることを〈真・宗〉というのだ。
 この〈いま〉は、決して「流れることのない時間」である。通時的時間は「流れ」だが、共時的時間は、「流れない時間」である。だから、昨日と今日という幅がない。一秒と二秒という間がない。間や幅があるものは、「時間」ではなく「空間」である。
 私は、人間とは「いま」しいか生きられない生き物だと言っている。昨日(過去)のことを思うのも「いま」だし、明日(未来)の予定を思うのも「いま」である。「いま」以外に生きてはいないのだ。だが、それをもっと厳密に見れば、「いま」と思ったということは、もう既に過去に飲み込まれている。秒針の動きで、「いま」と指さした途端に、「いま」は「さっき」(過去)に変質する。人間が認識するという時間が入り込むので、「いま」は必ず「過去」としてしか認識できない。
 ということは、人間には「いま」はないのだ。「過去」しかないのだ。この「過去」しか生きられない人間に向かって、「弥陀成仏のこのかたは、いまに十劫をへたまえり」と呼びかけられてくる。人間には、永遠に手の届かない〈いま〉を与えようと迫ってくる。「永遠なるいま」を開いて下さる。この〈存在の零度〉を開くことだけを〈真・宗〉は意図しているのではないか。