親鸞は「聖道の諸教は行証久しく廃れ、浄土の真宗は証道いま盛なり。」(『教行信証』化身土巻)と述べているが、「浄土の真宗は証道いま盛なり。」と書いた真意はどこにあるのだろうか。
いったい、何をもって「聖道いま盛なり」と言ったのだろうか。
江戸期、浄土真宗本願寺派の教学者・興隆は、「今盛トハ、祖師ノ五十二歳、此ノ書ヲ創章シ、已ニ末法ニ入リテ六百八十三歳。則チ末法萬年ノ始、利物偏増ノ朝也。正讃ニ云云。像末五濁ノ世トナリテ、乃至、念仏往生(証道)サカリナリ」と述べている。
証文として引かれている「正像末和讃」は、「像末五濁の世となりて 釈迦の遺教かくれしむ 弥陀の悲願ひろまりて 念仏往生さかりなり」である。
興隆は、「今盛」を親鸞が和讃に記した、「弥陀の悲願ひろまりて 念仏往生さかりなり」のことと解釈している。確かに「盛」は「さかりなり」と意味が重なる。
「さかり」という言葉の意味は、いままで衰えていたものが勢いを増してくるという意味でもあり、現状に勢いが噴出している状態、たとえば「花盛り」という意味もある。
それで、昭和期の浄土真宗本願寺派の教学者・星野元豊の『講解教行信証』(化身土の巻〔末〕)を開いてみた。そこには「聖道の教はその修行もそれを証るということも、もう永い間すたれてしまって、今では浄土の真宗が仏の証りへの道として、多くの人たちに信仰せられて、盛んになってきた。」と書かれていた。
ここには、「盛」の意味が、「浄土の真宗が仏の証りへの道として、多くの人たちに信仰せられて、盛んになってきた」と述べられ、「多くの人たち」が信仰しているから盛んなのだとの考えられているようだ。
果たして親鸞は、どのように考えていたのだろうか。そもそも「正像末史観」は、外見的なことから類推した衰退史観ではなかろうか。釈迦が亡くなってから500年が「正法」で、「教法(教)と、それを修行(行)する人と、覚り(証)を開いたひとが存在する期間」、さらにそこから1000年間が正法に似た時代、つまり「像法」である。「像法」とは、「教法(教)と、それを修行(行)する人は存在するが、覚り(証)を開いたひとがいない期間」、さらに1000年間が「末法」である。「末法」とは、「教法(教)のみが存在し、修行(行)するひとはもちろん、覚り(証)を開いたひとがいない期間」だとする。
確かに、時代状況を見れば、戦乱、地震、飢饉、疫病などの災厄が続き、世をはかなむという感情は分かる気もする。しかし、それを仏法が時代に与える影響の衰退と重ね合わせる必要があったのだろうか。どうも、末法史観は自虐的な面がなきにしもあらずだ。そもそも仏教が、それほどまでに時代に影響を与え得るものだろうか。仏教が時代に影響を与えていたら、災厄は起こらなかったのだろうか。逆に影響力が衰退したので、世が末法に変化したのだろうか。そんな比例関係にはなかったように思う。
たとえ「末法」の時代であっても、永平寺では修行をしているひとがいるではないか。また、それなりに覚りを開いているひともおられるのではないか。まあ、何をもって「覚り」とするのかということも問題のあるところではある。覚りとは、覚ったひとのみが知りうる心境だろうから、覚りも開いていない私が、覚りを云々することもできない。そうなると、覚ったひとがいないとは、誰がどのように判断するのだろうか。
そのような状況判断を取れば、正像末史観とは、外見上のことのような気がする。
それで改めて、「証道いま盛なり」を信仰分析してみると、衰退していたものが盛んになってきたというイメージでは捉えきれないように思う。確かに「聖道の諸教は行証久しく廃れ、浄土の真宗は証道いま盛なり。」だから、「聖道」は「廃れ」、「浄土の真宗」は「盛り」と相対的な優劣論に引きずられてしまいそうになる。だが、もし優劣論だけで述べたのであれば、それはその程度のものということになる。むしろ親鸞のイメージは、「この教え以外に仏教は存在しない」という直観ではなかろうか。だから、外見上の状況論とは無関係だと思う。つまり、信者の数が増加したとか、時代状況が劣化した中でも生き残っているとか、そういう理由ではなく、そもそも旧仏教は仏教ではなく、〈真・宗〉以外にはないのだという力強い宣言が、そこにはあるように感じる。
「聖道の諸教」とは、セクト主義で見たところの「真宗以外の宗派」のことではない。言えば、人間の「『~する』という関心」のことである。この「『~する』という関心」は、本来的に「行証久しく廃れ」だということだろう。つまり、「行証」とは、「本当の行と本当の覚り(証)」の意味だが、この二つが「廃れ」るとは、いままではあったが、いまではそれが役に立たなくなったという意味ではない。「廃れ」るの表層の意味は、「はやらなくなる。衰える」だが、深層の意味は、「本来的に成り立たない」ということだろう。
龍樹菩薩が、「難行道」の他に「易行道」を説いたのは、仏道を求めるための方法が二つあるという意味ではない。「易行道」以外に仏道は本来的に成り立たないということだ。龍樹菩薩の考えはどうだったか、いま一つ分からないが、それを受け止めた親鸞は、そのように理解していただろう。
「『~する』関心」からすれば、仏道は難しくなければ仏道ではないと考える。何もしないことは、すでに仏道ではないと考えてしまう。「易行道」とは、「弱者の姑息な方法」であって、そんな軟弱な要求は仏道ではないと思う。こういう発想を「難行道」という。「難行道」は、何かを「する」ことで未来に目標を設定しようとする発想だ。この発想から見た場合、「易行道」の本質は見えない。
「易行道」の表層の意味は、「易しい修行方法」だが、深層の意味は、「人間の『する』すべての行為に意味を与えない」という意味だ。これは「難行道」を要求する人間の「する」関心が破綻しなければ見えてこない地平だ。これが「易行道」という用語の深層の意味である。だから、親鸞の視線から見れば、「難行道」という仏道は幻想であり、「易行道」以外にはないことになる。私の言葉で言えば、「『~する』関心」が「ある」に破れたのが、「易行道」という意味だ。
話は飛ぶが、「修証一等」と語った道元禅師も、同じ地平を見ていたひとだと思う。「修証一等」とは、「『する』と『ある』とが一つになった状態」という意味だ。だから、人間の「する」、すべての行為(する)が「ある」によって無効化された「する」になっている。坐禅とは、「坐る」という行為をすることで何かを期待する行為ではなく、「坐る」という行為から、すべての「意味」が剥奪された行為なのだろう。だから、本質的に「坐る」という行為を採らなくても、「坐る」ことと同じ意味が開かれていることになる。おそらく、それを確認する場所が、「坐る」という行為なのだろう。坐禅もしたことのない私が、このように語るのもおこがましいが、たとえ坐禅をしなくても、坐禅の意味が開かれなければ、それは〈真実〉の「行」ではない。なぜならば、本質的に「いつでも、どこでも、誰でも」に成り立つものでなければ、それは本当の仏道ではないからだ。
それを直観した親鸞は、「坐る」ではなく、「称える」にこだわった。それは「いつでも、どこでも、誰でも」が、「坐禅」に比べて普遍妥当性を持っているからだ。しかし、「坐る」も「称える」も、「『~する』関心」の餌食とされるから、同じ問題を抱えてはいるのだ。
「する」関心が破れるとは、「意味」を求める人間に、「無意味」が突きつけられたことになる。「臨終」が突きつけられたことになる。「する」関心は、「まだ道半ばだ」と考えたくなるのだが、この一瞬に「臨終」という「完結」を突きつける。どこまでも、「これから、これから」と発想しようとする「『する』関心」に向かって、「もうすでにして完了している」と訴えてくる。
この「臨終」という突きつけによって、「『する』関心」が解体されることで、そこから「されている世界」が噴出する。「する」関心は、相変わらず「する」に意味を見いだそうとするのだが、それをそのままに放置することができる世界が「されている世界」だ。
「する」も、本質的には「されて『する』」なのだ。いままで、「する」の始発点を、「自己」というものに見いだしていたが、その「自己」という始発点が溶解され、「されている」になる。「されている」から見れば、「されている」以外に、すべては成り立っていなかったことが分かる。桜が咲くのも、自分が大便をするのも、そして、次の瞬間に何を思うかも、ありとあらゆることが、「されている世界」として復活してくる。いわば、見渡す限り仏法花盛りだ。
こういう世界を親鸞は、「証道いま盛なり」と表現したかったのではないか。