第18回静岡親鸞講座が、昨日(2025年3月26日)、真勝寺にて開催された。これはいつものことだが、前回に出された「質問&感想に応えて」を、次の回でお答えしている。静岡親鸞講座では、「正信偈に学ぶ」がメインテーマであり、この回は、曇鸞を讃歎した「往還回向由他力 正定之因唯信心 惑染凡夫信心発 証知生死即涅槃 必至無量光明土 諸有衆生皆普化」の段についてお話しした。
1、今日は禅問答の様な内容の講話で難しかったですが、久しぶりに面白さを感じました。ありがとうございました。「真宗は死から解放される宗教」とのお言葉が、強く耳に残っています。
武田→ 聴衆のかたから、「難しい」とか、「分からない」という感想をいただいたなら、それは話し手が「分かっていない」と受け止めなさいと曽我量深先生はおっしゃっていたそうです。確かに、そうなのでしょう。しかし、仏法は人間の頭では、どうしても歯が立ちません。それはもともと「不可称、不可思議、不可説」なるものですから、人間には、本質的に分からないものなのです。まあ、それほどに深遠なものなのでしょう。
なぜ深遠なものなのかと言えば、その直接の原因は、仏法にあるわけではないからです。実は、それは自己自身の存在の深遠さに原因があるのです。自己の存在が深遠で奥深いものだからこそ、それを解明するための仏法も、それに比例して奥深く、分かりにくくなっただけです。ですから、問題は仏法ではなく、自己の存在の深遠です。「なぜ自分は自分として、いまここに生きているのか?」。この存在の深遠さこそが奥深く分かりにくいのです。
それほどまでに自己は、自己自身にとって難解なものなのです。そもそも、この世を、一人称で「生きている」と言い切れる存在は、私を置いて他にありません。それほど重く深い存在が自己自身です。それを私は〈一人一世界(ひとりいちせかい)〉と呼んできました。この世は私一人の世界であり、もっと突き詰めて言えば、私そのものが「世界」なのです。私の内面が外に展開したものが「世界」です。だから、私とは「世界」なのです。まあ、これも「禅問答」のように聞こえますね。
私は「〈真・宗〉は『死なない』宗教」とも言っています。「死なない」というのは、この肉体を不老長寿にして長生きさせるという意味ではありません。不老長寿であっても、人間は生命体ですから、必ず生命機能を停止するときが来るのです。ただ、それを私たちは「死ぬ」と呼んでいますが、果たしてそれが、「死ぬ」ということなのかどうかを疑っているのです。生命活動が停止した状態を「死」と呼びますが、その「死」を、自分が確認できるでしょうか。それはできませんね。「ああこれが死ぬことか」と分かるということは、「死んでいない」ということですから。本当に「死」が訪れたときには、「これが死か」と認識することも体験することもできないのです。つまり、「死」とは決して一人称では体験できないものなのです。二人称か三人称の「死」しか経験できません。しかし、体験できないということは、知らないということですが、知らないはずなのに、私たちは、「死」とは何かを知っているかの如くに生きています。それをあえて、「死なない」と括弧でくくって表現してみたのです。
しかし、そのように言うと、「なんだ、死を知らないと言っているだけで、やっぱり人間は死ぬんじゃないか」と思いませんか。人間以外の生き物もすべて「死ぬ」のだから、人間が例外のはずはないと。そのように「死」を分かったことにしています。それは本当でしょうか。
人間以外の生き物も「死ぬ」と言いますが、人間以外の生き物には、「死」は存在しません。つまり、「死」を知らないのです。知らないということは、「存在しない」と同義語です。さらに「死」を知らないということは、その反対にある「生」も知らないのです。ですから、「鳥が死んでいる」と人間は言いますが、それは鳥が体験していることではなく、人間が「あたかも鳥に成り代わったようにして」体験していることです。もっと言えば、人間が「死」と意味づけているに過ぎません。そうなると、人間以外の生き物には、「生」も「死」も存在しません。それは人間が意味づけた世界の中にしか存在しないのです。つまり、「生」も「死」も人間界にしかない「特殊な意味」なのです。
そればかりでなく、私たちは「死」に対して、さまざまなイメージを懐きます。おそらく、それは、他者(二人称・三人称)の「死体」を見て、「死」のイメージを膨らませているのです。一言で言えば、「ああはなりたくない」というイメージです。「死」とは「寂しく、冷たく、孤独」なものだというイメージです。誰も、一人称で「死」を体験したことがないのにも関わらず、勝手に、そういうイメージを懐きます。
そういうイメージを作り上げる根っこには何があるのでしょうか。それこそが、「貪欲(とんよく)(rāga)」という煩悩です。「貪欲」は、この世に生きていることをよしとし、できるだけ、この生を延長させ、欲望を満たしたいと熱望している深層意識です。この「貪欲」こそが、「死」を恐れ、毛嫌いし、抹殺しようと企んでいるのです。そこに〈真・宗〉は、楔(くさび)を打つのです。「死」は本当に「寂しく、冷たく、暗く、孤独なもの」でしょうか、と。そう問われてみると、いままで「死」を知っていると思っていた思いが砕かれますね。「生」を幸福、「死」を不幸と考えていた思い、そのものが「貪欲」の生み出す幻想だと分かります。
私は、それを、「死なない」と、あえて問題提起してみたのです。もっと言うと、「死」を知らないということは、「生と死」は、一つの「いのち」の表裏的意味ですから、「生」とは何かも知らないということになります。「闇」を知るということは、明るさを知っているということと同じです。明るさを知っているから、明るさを失った状態を「闇」と言うのです。ですから、「闇と明るさ」も一つの同じ表裏的意味になります。このように考えてくると、いままで分かっていた「死」も、そして「生」も意味不明のことになります。「生と死」を仏教では、「生死(しょうじ)」と読み「迷いのただ中にある我々自身のあり様を比喩的に表現したもの」とも言われます。私は、これは「生と死」という表裏概念を、既知のこととして扱うことの誤謬を言っているように思います。
つまり、〈真実〉に照らせば、私は、まだ「生きているわけでも、死んでいるわけでもない」のではないでしょうか。〈真実〉に照らせばとは、「阿弥陀さんの前に立てば」という意味です。阿弥陀とは、「不可知」であり、「無意味」という意味です。そうなると、「いま、ここ、私」が「未知」の出来事として息を吹き返してきます。一言で言えば、「もう済んだ」ということは一つもないという、〈零度の存在〉が開かれるのです。
2、初めて講座に参加させてもらいました。不勉強な私には全体的に難しいものでした。
誰においても「死からの距離は等距離であり、同じ時間である。」「死の可能性は誰に於いても、次の一瞬だ」という言葉は、心に響きました。
武田→ 前のかたも、「死」について触れられていました。不思議なもので、「死」について考える機会が増えたり、また「死」という言葉をたくさん目にするほど、「死」を毛嫌いしていた感情が和らいできませんか。「死」という言葉のインフレーションは、「死」を和らげるはたらきがあります。やはり、生者は「死」を毛嫌いします。おみくじでも「大凶」は嫌いですし、「四番」という病室は嫌います。これはもう本能的に、人間であれば、仕方のない反応だと思います。
「死」は、「貪欲」の断絶だから毛嫌いされるのです。毛嫌いするものの正体が「貪欲」です。この「貪欲」を仏法の鏡に照らして、その構造を分析してみれば、「貪欲」に騙(だま)されていたことが分かります。私と「貪欲」は同一のものではありません。私を騙し誑(たぶら)かす正体が「貪欲」です。ですから、私と「貪欲」を切り分け、棲み分けできればよいのです。そうすれば、「貪欲」に騙されなくなります。それが〈真・宗〉の御利益です。
「貪欲」とは、「むさぼり」の煩悩です。これは何か財物や食べ物などを欲しがるという表層のものから、「見る」「聞く」「触る」「嗅ぐ」という感覚器官を統合する深層の欲望でもあります。例えば、「見る」という器官(視覚)は、カメラのレンズが外界を写し取るように見ているわけではありません。「見る」というときには、必ず「自我」の取捨選択が入っているのです。「自分にとって意味のあるもの」だけを選び取っているのです。ですから、「自分にとって意味のないもの」は排除します。そのとき、自分に引きつけてえり好みさせているはたらきが、深層の「貪欲」です。これは視覚ばかりでなく、聴覚、味覚、嗅覚、触覚すべてを支配しています。それらの器官が、自分にとって好ましいと感じられるものだけを貪(むさぼ)ろうとするのです。
ですから、親鸞聖人が、「凡夫というは、無明煩悩(むみょうぼんのう)われらがみにみちみちて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおく、ひまなくして臨終(りんじゅう)の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえず」(『一念多念文意』聖典p545)とおっしゃるのは、深層の「貪欲」を自覚的に表現したものでしょう。「いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころ」は、自覚しやすいです。しかし、たとえ「いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころ」が起こっていない間も、深層の「貪欲」ははたらき詰めなのです。
また、ご感想にあるように、「死からの距離は等距離であり、同じ時間である。」、「死の可能性は誰に於いても、次の一瞬だ」ということは、〈真実〉なる道理を表現したものです。道理ということは、人間がどのように思おうとも、それは間違いなく正しいという意味です。「貪欲」は、そんな道理を無視しようとします。「無病息災(むびょうそくさい)」は「貪欲」が一番欲しているものです。また、「死」は、自分には無関係な「不幸」であって、見て見ぬふりをして通り過ぎようとさせるのです。しかし、通り過ぎようとするものに、声を掛けてくるものが、〈真実〉です。この〈真実〉の声を聞いてしまった代表者がお釈迦様であり、親鸞聖人でしょう。「貪欲」にとって、〈真実〉は恐ろしいものです。
「御消息集」では、こうもおっしゃっておられます。
「もとは、無明(むみょう)のさけにえいふして、貪欲(とんよく)・瞋恚(しんに)・愚痴(ぐち)の三毒(さんどく)をのみ、このみめしおうてそうらいつるに、仏(ぶつ)の御(おん)ちかいをききはじめしより、無明(むみょう)のえい(酔)も、ようようすこしずつさめ、三毒(さんどく)をもすこしずつこのまずして、阿弥陀仏(あみだぶつ)のくすりをつねにこのみめす身(み)となりておわしましおうてそうろうぞかし。」(『親鸞聖人御消息集』聖典p561)
仏法を知らないときは、無明の酒に酔いしれて、貪欲・瞋恚・愚痴という三つの大きな煩悩だけを好んで食べていたけれども、阿弥陀さんの「お前をたすけるぞ」という誓いを聞き始めてからは、三つの大きな煩悩も少しずつ好まないようになり、阿弥陀さんの〈真実〉の薬を少しずつ服用する身となっていくでしょう、とおっしゃっています。
この「ようようすこしずつ」という言葉が、とても重たく感じます。やはり、「貪欲」は〈真実〉を恐れていますが、怖いながらも「少しずつ」阿弥陀さんの〈真実〉に触れていれば、必ず阿弥陀さんの薬、つまり〈真実〉が薬のようにはたらいて、「煩悩」の構造が明確に暴かれ、「貪欲」の正体を見ることができるのです。正体が見えれば、それに騙されることはありません。私はそれを、「貪欲」と「自分」を棲み分けると表現しています。「貪欲」は、自分という生命活動が停止するときまではたらき続けます。それを親鸞聖人は、「臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえず」と述べています。貪欲が「臨終の一念にいたるまでとどまらず」ということは、とことん悲嘆すべきことであります。しかし、それは悲嘆すべきこととばかりは言えません。「臨終」間際まで、阿弥陀さんの薬を服用することができるのですから、安心すべきことであり、また、たのもしいことでもあります。
3、道はどこかに行く、細いものだけれども、大道、道が広いということは、今ここわたしが浄土往生の場所だということ。お言葉とても響きました。どこかに行く事ばかり、何者かになることばかり考えていました。ありがとうございます。
武田→ そうですね。浄土教は「浄土へ往く」という物語的表現を使いますから、どうしても、自分が動いてどこかに往くというイメージで考えてしまいます。それもやむを得ないことだと思います。浄土教という「救済物語」は、表層(ストーリー)と深層(ナラティブ)で出来ていますからね。
有名な譬喩は、善導大師の『観経四帖疏(かんぎょうしじょうしょ)』に書かれている「二河(にが)白道(びゃくどう)」でしょう。(詳細は、『教行信証』(信巻)聖典p219~221に引用されています)初めに「人ありて西に向かいて行かん」と出てきます。「西」という言葉の表層の意味は「西方極楽浄土」ですが、深層の意味は「超越・救済」を表わします。「人が西に向かう」ということは、「必ず死ぬのに、なぜ生きるのか」という問題関心に、初めて目覚めることです。自分の人生がどこに向かって進んでいるのか。この問題関心がなければ、「西」などという言葉は無意味です。この問題関心が生まれることで、初めて「西」という言葉が暗示的な意味を持ってくるのです。
譬喩では、「西」に進んで行こうとすると、行く手を阻むように河が現れます。その河は、真ん中が分割されていて、南は「火の河」が、北は「水の河」が横たわっています。
まあ現実には、そんな河はないのですが、これは「信仰の譬喩」ですから、大目に見て下さい。
この「火の河」は「瞋憎(しんぞう)」で、「水の河」は「貪愛(とんない)」を象徴します。「火の河」とは「瞋憎」ですから、怒りや憎しみの煩悩に翻弄され、また「水の河」とは、「貪愛」で、貪りと愛執の煩悩に縛られている苦しみを表わします。ところが、それが交わる、真ん中に道幅が四五寸(しごすん)(約17㎝)の「白道」があるのです。とても狭い道ですね。
ひとは、この道を行こうとするのですが、火の河の猛火と、水の河の波浪に怖じ気づき、「西」に進むことができません。ところが、ここ(東岸)にお釈迦様が現れ、「この道を行け。私は必ずお前を護るぞ」(発遣(はっけん))と押し出して下さり、また西岸(彼岸)の阿弥陀さんは、「恐れるな、私は必ずお前を護るから渡って来い」(招喚(しょうかん))と呼びかけて下さり、ようやく「西岸」に渡ることができる、という救済の物語です。
『歎異抄』第二条でも、親鸞聖人は、「おのおの十余(じゅうよ)か国(こく)のさかいをこえて、身命(しんみょう)をかえりみずして、たずねきたらしめたまう御(おん)こころざし、ひとえに往生極楽(おうじょうごくらく)のみちをといきかんがためなり。」と語られていますから、どうしても「往生極楽のみち」を求めざるを得ません。「道」ですから、そこを歩いて「西方」へ移動するというイメージで語られます。これはいずれも、表層的表現(ストーリー)です。
しかし、問題は、そこをナラティブで、自分に引きつけて解釈していかねばなりません。「二河白道」の譬喩では、「道」の幅が「四五寸(約17㎝)」と書かれているのですが、私は、それを「三六〇度」と、自分に引きつけて解釈しました。まあ、長さの単位を角度で表現するという間違いを犯しているのですが、これは、許される解釈だと思っています。「道」と言えば、どこかへ行くための道というイメージになり、これは私たちが日頃歩いている「道」を連想させます。そうなると、「道」を間違えてしまえば、目的地に着けないことになります。そこには、どの「道」を行くのかという新たな問題領域が現れます。そのための「道」を選ぶという、法然上人的に言えば、「選択(せんじゃく)」の問題領域も生まれます。
私が、「道」の幅を「三六〇度」と言うのは、阿弥陀さんとの出遇いは、「いつでも、どこでも、誰でも」でなければならないからです。表層(ストーリー)としての「道」だとすると、「目的地に行くための道」というイメージになり、そこに行き着けなければ目的が達成できないことになります。それであれば、「いつでも性、どこでも性」から逸れてしまいます。いつでも目的地に着いていなければ、〈真・宗〉にはならないので、あえて、それを「三六〇度」と言いました。「道」が「三六〇度」であれば、自分が進んで行くあらゆる方向が「道」となり、「いつでも、どこでも、誰でも」が成り立ちます。いわば、そうなると、「道」ではなく、「場所」と言わなければなりませんね。
傍証というとおかしいのですが、安田理深先生も「白道」というメタファーで、同じことを語られています。
「信仰の真理は、それによって人間が道となるような真理である。善導は白道というが、人間が白道となるのである。その道を歩むことによって、人間を超えて人間となる、即ち方向をもった存在となるのである。それを往相・還相という。西方浄土というけれども、浄土に方向があるわけではない。方向は人間にあるのである。」(『安田理深選集』第11巻p11)
ここに「方向をもった存在となる」と書かれていますが、先生は、「西」に向かうということをナラティブで解釈されています。「西」に行き着かなければ目的が達成できないのではなく、「西」という方向が生まれれば、目的地が自分に開かれ、目的地が向こうからやって来るのです。「往相」も「還相」も共に「如来回向」であり、向こうから開かれるという意味合いです。だから、「いつでも、どこでも」ですから、「浄土に方向があるわけではない」のです。ただ「方向は人間に」於いてのみ必要なのです。だからナラティブで「三六〇度」と言うのではなく、あえてストーリーとして、譬喩的に「四五寸の白道」と表現するときもあるのです。
この「方向は人間にある」を丁寧に表現するならば、〈真実〉は、「いつでも、どこでも、誰でも」に開かれているのですが、それを自分(人間)が受け取るときには、「いま、ここ、私」と受け取るということです。〈真実〉は無時間であり、無限定ですから、「いつでも」です。しかし、それに目覚めるには、どうしても「人間的な時間」で表現せざるを得ないのです。人間は限定的ですから。たとえば「目覚め」とか「回心」ということを語るときには、どうしても「時間的表現」を使わなければなりません。例えば、『歎異抄』第十六条では、「一向専修(いっこうせんじゅ)のひとにおいては、回心(えしん)ということ、ただひとたびあるべし。」と述べられます。この「ただひとたび」という言葉は、限定的な「時間表現」です。意味は「一回限り」であり、「二度とないこと」です。それを読んだひとは、自分に於いてたった一回限りの回心という体験が、自分の人生の中で起こっただろうかと、自分の内面を探ることになります。つまり、「ただひとたび」を、過去に起こった一度限りの体験として読むのです。こう読むと、体験をしたかしないか、また体験をした人間は〈真実〉に適ったひと、そうでないひとは適わなかったひとと差別的な観念が浮かび上がります。さらに自分がその体験をしていればプラス価値、していなければマイナス価値として、自分自身を差別的に裁くこころも起こります。
この一連のこころの動きは、「ただひとたび」を一回限りの過去の体験として読むところから起こります。これはストーリー的な解釈です。本当は、ナラティブ的に解釈しなければならない言葉なのです。つまり、「このひとたび」とは、自分の一生を包むような一回性を表わしているのです。まあ私の言葉で言えば、「通時的時間観念」が相対化され、「共時的時間観念」の開けを「ひとたび」と受け取ります。「通時的時間観念」はストーリー的時間論ですから、一度限りの体験が「過去」に起こったかどうかと考える観念です。しかし、「共時的時間観念」は、その「過去」が「現在」の内容と受け取られる時間観念です。「過去」も「未来」も、すべてが〈いま〉の内容としてしかないと見切った観念です。それが「相対化される」という意味です。いわば、「過去」が「過去という観念」になって、〈いま〉の内容に包摂されるのです。人間は、〈いま〉以外を生きるとこのできない存在なのです。この〈いま〉も「刹那的ないま」でなく、「永遠のいま」です。「永遠」を内容として包んだ〈いま〉です。
4、法蔵菩薩とは「誓願」を擬人化した表現だ。というお話がありましたが、阿弥陀仏はどう表せるのでしょうか?レジメの最後の方に阿弥陀は「命令そのもののはたらき」と書かれていました。もうすこし教えてください。
武田→「法蔵菩薩」が誓願の擬人化であれば、当然、阿弥陀仏も擬人化された観念です。
別の表現を採れば、「法蔵菩薩」が誓願のコト的表現(動詞的表現)であれば、阿弥陀仏はモノ的表現(名詞的表現)と言えましょう。それも便宜的に分けた表現であって、いずれも「救済物語」のナラティブ的表現なのです。ナラティブとは、そこに「自分の存在」が入っているということです。教理はどうであっても、そこに「自分に於いては」という観点が入っているという意味です。
いずれにしても、「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて」(『歎異抄』第一条)から人生が始まったか、それともそうではないかです。「救済」という言葉が成り立つためには、「四苦八苦」に自覚的でなければなりません。救われたいという願いが起こるということは、その裏に必ず、いま現在が苦境であるということです。苦境からの脱出が「救済」だからです。「救済」とは、「救い」ですが、「すくう」という用語が、私たちの観念の中で、どのように成り立っているのかを森田良行さん(国語学者)が解説されています。
「救う」は「掬う」(「手で水をすくう」)と同語源で、「下(マイナス評価の領域)に位置しているものを一部取りたてて、そこから拾い上げる」行為である。
「助ける」が、自力で事を進めようとする対象に手を貸す行為であったのに対し、「救う」は、対象の意志とは無関係にマイナス状態の領域から引き上げる行為である。マイナス評価の領域から対象が脱出するよう、主体が一方的に判断して手を下す、対象の意志や意図を無視した行為なのである。(『基礎日本語2』角川書店1980年)
苦境という「マイナス状態の領域から引き上げる行為」が「すくう」です。「水を手ですくう」という状況を思い浮かべれば、確かにそうだと分かります。「救う」というと信仰的なイメージ言語ですが、「掬う」と同語源と言われると、腑に落ちます。つまり、人間が考える「救い」とは「マイナス状態の領域」から引き上げられなければなりません。「マイナス状態の領域」とは、「四苦八苦」の領域でしょう。これが変換されなければ、人間は「救い」とは見なさないのです。つまり、状況(条件)の変化なしに「救い」という言葉は成り立ちません。これが人間界の「常識」です。ところが、阿弥陀さんの「救い」は無条件なのです。
安田理深先生は、また違う角度から、こう言われている。
「仏法の歴史から生まれて、仏法の歴史を創造する仕事が与えられたのである。楽になったということではない。仕事を与えられることが救いである。」(『安田理深選集』第9巻p209)
こう言われると、「マイナス状態の領域」からの「救い」というイメージが崩されますね。「マイナス状態の領域」からの「救い」であれば、「楽になる」というイメージになります。しかし、先生は「楽になったということではない。仕事を与えられることが救いである。」とおっしゃる。また別のところでは、「衆生を救うのは仏かもしれないが、仏を救うのは衆生かもしれない。」(『安田理深選集』第15巻下p49)とおっしゃる。
「救い」とは、「マイナス状態の領域」から抜け出して楽をすることではなく、むしろ「仕事をあたえられること」であり、「仏を救う」ということでもあるのです。このように私たちの「仏教語」に対する「固定観念」が溶解し、ナラティブとして再解釈されることを先生は教えておられるのだと思われます。
再度、お尋ねの言葉に戻りますと、「阿弥陀は「命令そのもののはたらき」」と書きましたのは、阿弥陀さんに「まかせよ」という命令という意味です。この「まかせよ」という命令が発せられる原点は、「まかすことができない自分」です。どこまでも、まかすことができない者だけに、「まかせよ」という命令が届くのです。どこかの時点で、まかすことができるようになったら、「まかせよ」という命令が発せられる必要がありません。ですから、まかせられるようになってから、まかせるのではありません。まかせられないままにまかせよという命令を受け取るのです。まかせよという命令が届いたことで満たされるのです。「南無」とは、「南無せよ」という命令ですが、この命令そのものが阿弥陀さんです。「南無せよ」以外に阿弥陀さんはどこにもおられません。
5、一人一世界ということとは、少し離れてしまうかもしれませんが、先生が考えている「世界」ということをもう少し教えて頂けませんか?
武田→ 「世界」と言っても「自己」と言っても、「事物」ではありません。「意味」です。まさに「意味空間」です。決して他者と一致することのない〈一人一世界〉そのものです。これは「他者」と対立した世界ではなく、むしろ「他者」そのものが、〈一人一世界〉の内容です。「他者」ばかりでなく、あらゆる事物などの関係性が世界を構成しているのですから、〈一人一世界〉が「世界」だと受け取っています。
6、太陽と月、阿弥陀と私、本願と信心、説明ありがとうございました。お念仏は、この譬えの中では何になるでしょうか?月影という言葉もありましたが合わせて教えて頂けますでしょうか?それと太陽の光を受けると月も熱を持つと思うのですが、それは利益なのか?と勝手に思っていますがどうでしょうか?
武田→ 親鸞聖人は、「念仏」を「すなわちこれ南無阿弥陀仏なり」(『教行信証』行巻・聖典p192)と言います。これをどう受け取るか。私は、「南無阿弥陀仏」を、「私を救う救済原理であり、仏さんの本当の名前であり、私の本名でもある」と言っています。
「私の本名」とは、私を「阿弥陀仏に南無する者」として頂くという意味です。それまで私の名前はないのです。戸籍上の名前は、他者が私に貼ったレッテルに過ぎません。それでは、私の存在全体を、私が頂くことができません。「本名」とは、「南無阿弥陀仏」という救済原理によって、初めて私という存在を「南無阿弥陀仏」として頂くという意味です。「阿弥陀仏に南無する者」が私の本名です。
また、表層の意味としての「念仏」は、「仏を念う」、「仏をこころの中でイメージすること」、あるいは「ナムアミダブツと発語すること」でしょう。しかし、深層の「念仏」とは、自分とは何者であるかということを教えて救う救済原理です。それを一語で表現したのが「念仏」という言葉です。そういうことに、つねに目覚めさせてくれるのですから、譬えれば、「念仏」とは「目覚まし時計」かも知れません。娑婆は、本当の自分の名前を忘れさせる場所かも知れません。忘れてしまえば、私が「相対化」されてしまい、「絶対的な基準」を失います。だから、つねに、「絶対基準」へ帰らせてくれる。それが「念仏」でしょう。
また「太陽の光を受けると月も熱を持つと思うのですが、それは利益なのか?」についてですが、阿弥陀さんを譬えて「超日月光(ちょうにちがっこう)」と言いますから、太陽や月の光を超越してるものという意味です。あの真夏の太陽の光を超えている光を人間が浴びれば、人間は焼き尽くされてしまうでしょう。そういう意味で「超日月光」は人間の利益にはなりません。だから、私たちは、その光を直接には、見ることができません。
「正信偈」で「譬如日光覆雲霧(ひにょにっこうふうんむ) 雲霧之下明無闇(うんむしげみょうむあん)(たとえば、日光の雲霧に覆(おお)わるれども、雲霧の下、明らかにして闇(くら)きことなきがごとし)と親鸞聖人は言われます。「日光」とは阿弥陀さんの「超日月光」ですが、この光が私たちを照らそうとしても、雲霧というものがあると。この雲霧とは、「貪愛(とんない)・瞋憎(しんぞう)」という煩悩です。しかし、たとえ煩悩があったとしても、真っ暗闇ではないと言われます。確かに昼間であれば、雲が出ても真っ暗闇にはなりませんね。つまり、曇天であれば、その下を歩くことができます。その雲の上には日光が照らしているのですから。
ただ、この表現は消極的な表現だと思います。たとえ煩悩の雲霧があったとしても、阿弥陀さんの光があるのだから、真っ暗闇にはならず、その下を歩くことができる、という表現です。私はそれを積極的な表現に変えています。それは、こうです。「煩悩の雲霧があるからこそ、その下を歩くことができる」です。もし、雲霧がなければ、阿弥陀さんの太陽を超える強烈な光が直接、我々に降り注ぐことになります。もしそうなれば、私たちは阿弥陀さんの光に焼き尽くされてしまうでしょう。私たちは、雲霧のお陰で焼かれることもなく、その下を歩くことができるのです。つまり雲霧のお陰とは、煩悩のおかげさまなのです。煩悩があるからこそ、阿弥陀さんの光に焼かれず、光をぬくもりとして頂くことができるのです。そこまで行けば、「利益」と言ってもよいのでしょう。
実は、煩悩を起すことも、自分の意志ではありません。まさに「他力」のなせる技ですから、自分を超えています。つまり、自分でも思ってみないような煩悩が私の上に展開し、それすら「自力」で起こせるものではないと教え、阿弥陀さんのはたらきを教えてくれるのです。そう頂ければ、「煩悩」は、私を教えて下さる教材に変化します。「煩悩」は邪魔なものではなく、逆に、「煩悩」こそが私の先生に変化します。これが「利益」でしょうね。
7、今日はありがとうございました。まだまだしっかりと理解できませんがこれからも学んでいきたいと思います。よろしくお願い致します。
武田→ なぜ、「これからも学んでいきたい」と思われるのでしょうか。私は、つねづね、「この世は、〈私一人〉を教育する阿弥陀さんの(いのち)の学校である」と言っています。この学校は一生涯の学校ですから、この世に居る間は卒業がありません。この身体を脱ぎ捨てて逃げることもできません。これからも共に学んで参りましょう。真宗門徒とは、一生を学びの場とすることができる存在ですから、これは喜びではありませんか。
それはこの身に展開している阿弥陀さんを実感し、阿弥陀さんと一緒に学び続けることができるのです。これほど創造的なことはないと思われます。