「本当の自己」という幻想

 「自分」とは何か、などという問いはどこにも転がっていない。世間は、「自分」が分かりきったところから出発しているからだ。「自分」が分かりきっているので、逆に「自分」が盲点になっている。これほど自明であり、当たり前になりきっているので、かえって「自分」が盲点になってしまった。
 そんな世間に向かって、「自分」とは何か、などと問うてみても、それは暇人の暇つぶしじゃないかと蔑まれる。世間は、この問いが、いったい何を言っているのかが意味不明だからだ。
 「自分」の知っている自分とは、すべて「過去の自分」だ。だから評価の対象になる。でも、その「過去の自分」を評価する自分とは何者なのかは分からない。それを「こころ」とか「意識」と呼んでいるが、そんな「こころ」を見たひとはいない。「こころ」は目で見ることができない。「こころ」が目で見ることができないのに、「こころ」はあると思っている。「こころ」があると思い込んでいるし、それが「自分」だと思わされている。この目に見えない「こころ」に一喜一憂させられているのが、世間である。
 ただ〈真実〉だけは、それを許さない。「自分」とは分かりきったことなのだろうかと批判する。そう問われてみれば、「自分」とは何かなどということが、まったく分からなかったと気づく。
 人間の「自己意識(自我)」というものは、分裂している。必ず「知る自己」と「知られた自己」に分裂する。分かっている自己とは、「知られた自己」のことである。だから、人間は自己紹介というものをすることができる。それは「知られた自己」の情報だからだ。 しかし、それでは「知る自己」とは、どういう自己だろうか。そう問うてみると、分からなくなる。それは「知る自己」だろうと言われるかも知れないが、「知る自己」だと知られてしまったなら、それはもうすでに「知られた自己」になってしまうではないか。
 だから、いくら「知る自己」、つまり、「本当の自己」を探そうとしても、探されて知られた自己は、「知られた自己」以外ではない。
 このように厳密に考えてみると、「知る自己」とは決して掴むことのできないものになる。「得体の知れないもの」となる。
 自分とは、自分にとって、「得体の知れないもの」なのだ。だから、次の瞬間に何を思い、どう行為するかは、決して予測が付かない。ある程度の予測を付けて生きているのだが、それはあくまで「予測」であって、「確実」ではない。だから、転倒事故や交通事故が起こる。
 「知る自己」など、誰も見たことがない。知っているのは、「知られた自己」という情報のかたまりだけだ。だから「本当の自己」など、誰も人間は知ってはいないのだ。
 親鸞も、「凡夫というは、無明煩悩われらがみにみちみちて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおく、ひまなくして臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえず」(『一念多念文意』)と、いかにも「凡夫」を知ったかのように語っているが、これも「知られた自己」の断片を語っているに過ぎない。
 もしこれで、「本当の自己」が、丸ごと分かったと結論づけてしまえば、そのときには阿弥陀さんと縁が切れてしまう。「知られた自己」は、どこまでも自分が知った限りの断片に過ぎない。自分には「本当の自己」など知ることができないのだと、教え続けられているのが、阿弥陀さんだからだ。その阿弥陀さんの仕事を奪うようなことはしてはならない。
 自分は本質的に「本当の自己」を知ることはできないし、知る必要もないのだ。