我々には「必然」ということはない。あらゆることが「偶然」である。
人類として、男として、日本人として、昭和に誕生した者として、いま、ここに在ることは、すべてが「偶然」のなせる技である。どこを探しても「必然」はない。
それを無理矢理、「必然」だと思い込もうとしても、そこには無理がある。というか、〈真実〉に背いてしまう。宗教は、その「偶然」をなんとかして「必然」に変えようとしてきた歴史かも知れない。「偶然」を、そのまま放置してしまえば、この世は絶望で覆われてしまうからだ。あらゆる犯罪の根っこには、「偶然」が横たわっている。
自分は、たまたま偶然、ここに在ると考えれば、ここに在ることをこころの底から、よしとして頷けてはいない。「よし」が生まれる条件は、自分にとって好都合な場所だけである。その「よし」の反対には、「あし(悪し)」が張り付いている。この「よし・あし」を判断する基準は、「貪欲」以外にない。
つまり、「貪欲」がある限り、「偶然」が「必然」に転ずることはない。だが、それが結論になれば、〈真・宗〉は不要だ。
しかし、よく考えてみると、自分の深層では、自分がたまたま、いま、ここに生まれ落ちたことを、そのまま「よしとして」受け取りたいのではないか。それがどんなに不都合な場所であっても。こころの奥底では、そう願っているのではないか。もし、「貪欲」が、それを「偶然」と見なし、顧みないようにさせようとしてもだ。ということは、「貪欲」は自己を騙すものだと、どこかで直観しているのだろう。
いまがどのような場所であっても、それを「よしとして」受け取れるような存在であれば、この世のどこに居ても、そこが自分の居場所として安定する。それを自己の深層は知っているし、心底で望んでいるように思う。
その関心に応ずるために、阿弥陀さんは「無蓋の大悲」を発されたのだろう。「無蓋」とは、「無縁」と同義語であり、「無条件」という意味だ。
安田理深先生は、こう言っている。「無縁の大悲というものが、キリスト教で考えられぬような深い意味があるのではないか。それはただ捨てるのではない、かえって深い絶望をもった愛情というものであろう。見込みがあってやるわけではない。見込みがないけれども、全生命をかけるのである。見込みがないものに、全生命をかける、そういう深い意味をもってくるのだと思う。」(『安田理深選集』第11巻p205)
決して「偶然」を「必然」として受け取れない者に向かって、「見込みがあってやるわけではない。見込みがないけれども、全生命をかけるのである。」とおっしゃるところに、切羽詰まった力を感じる。
「偶然」を「必然」と思えない者に向かって、とことんまで「必然」を与えようとして関わろうとする力だ。だから、無理矢理に「偶然」を「必然」として受け取ろうとする必要はない。もし少しでも、「必然」だと思えてしまったなら、阿弥陀さんが「見込みがないものに、全生命をかけ」ようとする必然性が、なくなってしまう。
こっちが絶望的ならば、阿弥陀さんも「深い絶望をもった愛情」で関わってくる。ここで絶望と絶望とが共鳴するのではないか。
人間の絶望と阿弥陀さんの絶望とが共鳴し、そこに何事かが創造される。