万事未済決

「生」に方向が生まれるとは、「因位に立つこと」だ。それは「永遠」に向かうことだ。「西方浄土」という場合の「西」とは、「因位」であり、「永遠」を表わす。
 いままで無方向に進んでいた人生に、初めて方向性が生まれることだ。その方向は「永遠」を向くこと。それは、この世の方向性を超える。
 浄土教は方向を表わすとき、「六方・八方・十方」などの言葉を使う。それは「永遠」を象徴する。それは自分がこれから歩み出すという方向性ではなく、「向こうから開かれる」というイメージの方向性だ。
 阿弥陀さんのひかりは、「十方衆生」を照らすと、普遍性を「十方」で象徴する。ただそのひかりを受ける自己は、特殊性を「親鸞一人」という〈唯一人〉で表現する。
 この〈唯一人〉には、「万事未済決」という「方向性」が生まれる。
「万事未済決」とは、「万事、未だ済決無し」と読ませる。つまり、すべてのことに於いて、これで済んでしまった、ということが無くなるという意味だ。
 〈唯一人〉が向かう時間は、つねに「永遠」である。人間の「未来・現在・過去」という時間観念が、完全に相対化されてしまった時間だ。
 「未来・現在・過去」という時間が、まるごと《過去》に納められる。人間が意識した時間は、すべてが、この《過去》の内容になる。この《過去》の発見は、「永遠」によってのみもたらされる。これが「万事未済決」である。
 布団の中で、目が覚めたという単純な出来事が、「万劫の初事」として輝きを放つ。