すでに「答え」を私はもっている。持っているけれども、持っていることに気づけない。ただそれだけのこと。
赤瀬川源平が、かつて「宇宙の缶詰」という作品を造った。これは私の「答え」をすでにもっているという直観と符合した。以前の私は、宇宙の神秘を天文学的に考えていた。つまり、自分とはかけ離れた、宇宙の彼方に神秘を思い描いていた。しかし、それが間違いだと、あるとき気づいた。宇宙の神秘は、実は、私の手のひらの中にあったのだ。もし宇宙がどれほど大きなものであっても、それを包めるものがあれば、宇宙を包むことができる。私は宇宙の梱包箱を考えた。この梱包箱をギューッと縮めていって、それをひっくり返す。すると、いままで外だった宇宙が内側になる。これで手のひらの中に宇宙を閉じ込めたことになる。箱だとイメージしにくいが、ゴム風船のほうがイメージしやすいかも知れない。ゴム風船をめくって、内側と外側をクルッとひっくり返せば、内と外が逆転する。いままで外だったものが内になる。これで宇宙をゴム風船の中に閉じ込めたことになる。
赤瀬川源平の発想した「宇宙の缶詰」も、これと同じ発想だ。宇宙の神秘は、何億光年という時間を掛けずに、いまこの手のひらで包まれた内側にある。「宇宙の缶詰」に閉じ込められた内側にあるのだった。そんな馬鹿げた空想なんか、考えるに値しないと、以前の私は見捨てていた。しかし、その直観がやってきてからは、これが〈真実〉だと思い直している。
思いっきり、話を抹香臭くしてみよう。「答え」をすでに持っているという直観とは、私たちは、すでに「浄土」を持っているという直観だ。一般的な「真宗門徒」は「浄土」は自分たちがやがて、いつの日にか往くところと、漠然とイメージしている。つまり、それは「いま」ではないと。私はそのイメージに対して、私たちはすでにして「浄土」の中で暮らしていると直観した。「真宗門徒」は、「浄土」の中に居ながらにして、ここではないと、他に「浄土」を求めているのかも知れない。
〈真実〉の「浄土」には「浄土」という言葉も存在せず、また言葉を必要としない。「浄土」という言葉が必要とされる場所は、「いま、ここ、私」である。つまり、「浄土」という言葉は、「いま、ここ」を生きている、「私」のためにのみ存在する言葉なのである。「浄土」は、阿弥陀さんの誓願が浸透している空間という意味だ。だから、地理的、あるいは空間的概念ではない。譬えれば、「芸能界」というときの、「界」と同じ概念だ。芸能人は人物だから特定できるが、「芸能界」は特定できない。どこにあるのかも分からない。分からないけれども、私たちはそういう「界」のあることは知っている。つまり、その「界」とは「意味空間」のことなのだ。
つまり、私たちは「いま、ここ」ですでにして「浄土」という「意味空間」の内部にいたのだ。内部にいたのだが、内部にいることに気づけない。そのために、「お前たちは、もうすでにして浄土の内部にいるのだぞ」と阿弥陀さんは叫んでおられるのだろう。
「浄土」とは、「いま、ここ」のことであり、決して未来のことではない。人間は、「さあこれから浄土を目指すぞ」と意気込むけれども、それに対して阿弥陀さんは、「すでにして、お前は浄土の内部だ」と応答する。親鸞が、「すでにして悲願います(既而有悲願)」(『教行信証』化身土巻)と表現したのは、その直観があったからではないか。この「すでにして」という言葉は、お前は、「答え」をすでに持っているという意味なのだ。
私たちは、「未来」を知っているようにして生きているけれども、それは間違いだ。人間が描く「未来」とは、「過去」の別名である。例えば、「明日、学校に行く」という表現は「未来」のことについて語っているようだけれど、そうではない。「明日、学校に行く」という言葉が生まれてくる確かさは、「過去」にしかない。「昨日、学校に行った」という「過去」の情報を「未来」に当てはめているだけだ。だから、「明日、学校に行く」という表現は「未来」について語っているわけではない。人間は、「過去」のみにしか生きてはいないのだ。
そうなると、「未来」とは何を言っているのか。人間には、決して予想もつかない、いまだかつて触れたこともない「意味」だと言えないだろうか。「未来」という言葉に受ける印象を正直に言えば、それは「一瞬先」である。身近なことで言えば、自分の「臨終」は、何年後か何十年後だとイメージしている。まさか今日ではないと。しかし、次の瞬間に「臨終」を迎えていないとは、誰も言い切れない。震災、火災、交通事故、心筋梗塞、脳溢血、事件など、思いつく「死因」はいろいろと出てくる。「臨終」の可能性は、やはり、「一瞬先」でしかない。
だから、「臨終」を迎えた他者を見たとき、私たちは「まさか」と言う言葉を吐く。「臨終」間際の病床にあるひとであっても、いざ「臨終」を迎えたときには、身内が、必ず「まさか」という言葉を吐く。「臨終」間際なのだから、「臨終」は当然のこととして受け止められるか言えば、そうはならない。
でも、本当は、「一瞬先」の「まさか」と、二十四時間、面と向かって生きているのが人間だ。これが私たち人間のいのちというものの〈真実〉だ。
思いを超えた世界に包まれながら、私は「思い」の中に閉じこもっている、と思っている。思いを超えた世界が〈真実〉なのだ。〈真実〉は思いを超えている。思いを超えていると教えることを通して、逆に「思い」の中に閉じこもっていることを知らせる。その知らせるはたらきが、動詞としての「浄土」である。だから、いつでも「浄土」である。
「現在」も「未来」も、すべては「思いという過去」の中にしか存在しない。だから、人間は、〈ほんとう〉の「時間」を知らない。〈ほんとう〉の「時間」とは、人間が感じる「思い」の中にはないのだ。そうやって教えることで、人間を「時間という観念」から解放する。
どれほど、「未来」を思い描こうとしても、それは、「思いという過去」の内部にしかない。私たちには、〈ほんとう〉の「未来」は存在しないのだ。なぜならば、〈ほんとう〉の「未来」とは「永遠」だからだ。「永遠」とは、何というほのぼのした言葉だろうか。それもまた「思いという過去」の内部にしかないほのぼのさだ。決して、触れることも、見ることも、考えることもできない「永遠」。その中に、ぽつねんとして自分はいる。
ああ、どこまでも自分は「思い」の中にしか住めない。「井の中の蛙」だが、どこかに「永遠」を感じている。