方向をもった存在

「自己」というものは、本当に「こと」だと思われる。一応、日常的には、「自己」をモノであるかのように扱っている。病院で「タケダサダミツさん」と呼ばれれば、自分のことだと思って、その呼びかけに応ずる。「ダケダサダミツ」は「自己」というモノに貼られたレッテルだと知っているから。しかし、それはレッテルであって、本当の自分ではないと思っていれば、その呼びかけを無視することができる。
 「タケダサダミツさん」と言う呼びかけは、自分のレッテルであって、本当の自分の名前ではないと思っていれば、そんな呼びかけに応ずることはできない。しかし、現実にそんなことをしたら、受診の順番が遅くなるばかりだから、そんな不利益を被るようなことはやらない。この世のルールでやらなければ、この世は生きにくいとは分かっている。蓮如の言う「世間通途の義に順じて」(『御文』)とは、このことだ。
 しかし、それは「世間」という意味空間に於いて通じることであって、〈真実〉の意味空間には通じない。私の知っている「タケダサダミツ」とはたくさんの意味空間を持ちすぎていて、本当は特定することができない。病院という意味空間では「患者としてのタケダサダミツ」だし、寺院という意味空間では「住職としてのタケダサダミツ」であり、コンビニという意味空間では「お客としてのタケダサダミツ」であり、家族という意味空間も細分化されていて、孫にとっては「ジイジとしてのタケダサダミツ」、妻にとっては、「夫としてのタケダサダミツ」、息子にとっては、「親父としてのタケダサダミツ」、それも長男にとってと、次男にとってとは、意味空間が違っている。
 これはほんの一部だが、自分の知っている「タケダサダミツ」は、無量無数の意味空間を生きている。だから、どれが「本当のタケダサダミツ」なのか分からない。あるいは、どれも「本当のタケダサダミツ」であるのかも知れない。しかし、それを何となく統合しているものがある。それを「我執」とか「自己意識」と呼んだりしている。
 このように言えば何となく分かったような気になるが、それはモノ化された理解である。モノ化とは、「対象化」であり、「意識化」されたという意味である。脳は、とにかく手抜きをしたい臓器だから、ひとたびこう言うものだと理解したら、それは「分かった」というタンスにしまい込まれ、もうそれ以上は考えないようにする。考えるということは、エネルギーがいることで、脳は、そんな面倒で厄介なことはやらない。とにかくつねに省エネを模索しているのが脳という臓器だ。
 だから、みんな、脳に騙されて、脳が理解した程度に、すべてが存在しているかのように「分かって」生きている。ひと昔よく言われた「ヴァーチャルリアリティ」だ。「仮想現実」と日本語に訳されるらしい。コンピュータによって造られた仮想現実空間のことだ。このゴーグルを着けると、あたかも「現実」であるかのような空間を体験することができるらしい。しかし、我々は、それがどこかで「仮想」だと分かっている。コンピュータという機械が作り上げた空間だと知っているからだ。
 「仮想」という言葉が生まれてくる背景は、「現実ではない」だ。我々は、すでに「現実」とは何かを知っているから、これは「仮想」だと分かる。そこにコンピュータという機械が介在しているからだ。しかし、どうだろう。そこに「脳」が介在しているとしたら。「脳」は「現実」を知っていると思っているが、その「脳」が、実はコンピュータと同じはたらきをしているとしたら、これはちょっと、ギョッとするのではないか。つまり、何が現実かが分からなくなる。いままで「現実」だと思って安心していた意識が、揺らぎ出す。
 このギョッとして不安を惹起するものに対して、我々は驚きたじろぎ、さらにその不安を引き起こすものを除去したくなる。この淵源をたどっていけば、これは「承元の法難」を起し、法然・親鸞の浄土教を弾圧した者の不安と通じてくるに違いない。
 まあそれはそれとして、我々は、いまだにモノ化された「自己」しか知らない。そのモノ化を引き起こしている、当の「自己」には会ったことがないのだ。そんなバカなことがあるかと否定したくなる。だが、否定したあとに、もしかしたらという不安がよぎらないだろうか。
 私は「自己を本当には知らない」という発見は、驚きであると同時に、喜びも生み出す。驚きという側面は、人間の知っている「現実」は、「脳が生み出した現実」であって、〈真実〉ではないという絶望だ。そして、喜びという側面は、人間が目の前にしている「現実」は解釈されたものだから、いくらでも書き換えることができるという喜びだ。
 おそらく、自分では「本当の自己」など分からないものだから、それを「阿弥陀さんだけがご存じのこと」と物語化して、真宗門徒は受け取ってきた。人間は「物語」を抜きにして生きられない生き物だ。それは人間が、自分の人生を「過去形」で、脳が受け取るからだ。「過去形」で受け取るとき、そこには「原因と結果」という因果論で味付けられ、自分の「物語」が誕生する。そして、最後は、「これでよかった」とハッピーエンドで締めくくりたい衝動も生まれる。「過去形」となった人生を、喜怒哀楽という感情でどう味付けるかも脳のお好み次第だ。悲劇にも喜劇にも人情話にも、どのようにもお好み次第だ。それらはすべてモノ化された「自己」だから、脳のやりたい放題ということになる。
 安田理深先生は、「道」というメタファーで、その問題を考えていたらしい。
「信仰の真理は、それによって人間が道となるような真理である。善導は白道というが、人間が白道となるのである。その道を歩むことによって、人間を超えて人間となる、即ち方向をもった存在となるのである。それを往相・還相という。西方浄土というけれども、浄土に方向があるわけではない。方向は人間にあるのである。」(『安田理深選集』第11巻p11)
 ここに実に興味深い、「方向をもった存在となる」という言葉が提示されている。まあ私流に言えば、「絶望道」という「物語」を生きる者に対して、「往生道」という「物語」を提起している。「往生道」とは、やはり「道」である。もちろん、「道」も「物語用語」である。まあ親鸞にとっての「道」の道幅は、360度だから、全方向であり、それは「場所」となる。この「場所」という側面は、「浄土」というメタファーで語られる。だから「往生道」という意味空間に於いては、「道」も「浄土」も同じ意味なのだが、まあここでは、その問題は、置いておくことにする。
 とにかく、「道」とは、「方向性」を暗示するメタファーだ。善導大師も、「白道」というメタファーを使っていると安田先生は指摘する。「道」に立てば、自分の前には未来へと向かう道があり、自分の後ろには、いままで歩いてきた道が浮かび上がる。つまり、「未来」と「過去」が出現する。
 まあ、いつも言うことだが、我々人間には、「過去」しか与えられていない。「未来」など誰も見たこがないのだ。千葉県で、90歳の老人を85歳の老人が、自動車でひいてしまったそうだ。「未来」が見えていれば、そんな事故はおこらない。
 敢えて言えば、「事故」の中を我々は日々生きているのだ。「まさか」という現実を生きているのだ。それが意識化されないだけで、本質は「事故」を生きているのだった。庄松さんなら、「それが娑婆のありさまじゃ」と豪語するのだろう。
 「往生道」という「物語」を噛み砕いてみれば、自分はつねに「永遠」を目の前にして動いている生き物だ。自分が自分にまで成ってきた、すべての過去をひっさげて、いま「永遠」を目の前にしている。それが「方向をもった存在」という意味だと、受け取っている。もちろん「浄土に方向があるわけではない。方向は人間にある」に違いないのだ。「方向」も「物語」内部の用語だ。「方向」をもっているからといって、何かを目指して動いていくわけでもない。「方向」をもった存在のことを〈零度の存在〉と言ってみたい。
 もっと言えば、「方向を与えられた存在」だろう。阿弥陀さんから、つねに引っ張られていく、それを「方向」という言葉が暗示する。