我々は、煩悩を知っていると思っている。それは大変に傲慢なことだった。ああ恥ずかしい。なんということだ。
煩悩を丸ごとご知っているのは阿弥陀さんだけだ。
人間が知っている煩悩は、煩悩の断片でしかない。
生々しい煩悩の発生現場では、煩悩を「煩悩」と見ることもできない。
怒りの発生現場、貪りの発生現場では、怒りそのもの、貪りそのものを見ることはできない。
いつでも、それらが起こった後に知らされる。
煩悩が起こる瞬間を見ることができない。
だから、煩悩を抑える押さえることもできない。
すでに手遅れでしかない。
だから阿弥陀さんは、呼びかけ続けているのだ、「煩悩具足の凡夫よ」と。まさか「煩悩具足の凡夫」が、
私に対する教えだったとは。そんなことは思いもよらなかった。
恥じ入るばかりだ。