「世界」とは貴方自身である、と言ってみたくなった。私の眼で見ることができるのは、「外界」である。窓から外を見れば、五階建ての団地があり、その1階には保育園があり、その手前に公園があり、三本の桐の木が生えているのが分かる。それを私は「環境」であり、大げさに言えば「世界」だと思っている。
しかし、その「世界」は私とつながっている。むしろ「世界」によって成り立たされている。この世は無量無数の縁(関係性)で出来上がっているから、「世界」が、そのようにある背景は、無限である。そう思うと「世界」こそ私自身なのだと頷ける。
もし私が吸うための空気がなければ、私は数分で生理的機能を停止する。空気の体積は、「温度20度、湿度65パーセント、1気圧の標準空気の1リットルの重さは、約1.2グラム」だそうだ。そしてこの空気の隣にも、同じだけの空気があり、またその隣にも同じだけの空気がある。目に見えない空気を「箱」に例えれば、それらの「空気の箱」が、何万、何千、何億と積み上げられているようだ。私が吸っているのは、私に近い「空気の箱」だ。でも、これも単体で存在してはいない。もしその隣の「空気の箱」が無くなれば、それ自体も無くなる。この「空気の箱」が成り立つためには、それと隣接する「空気の箱」がなければならない。
絶えず木々などが排出している酸素が、空気の主成分なのだから、木々が無くなれば、私もここに存在していられない。
空気はもちろん、この肉体もそうだ。この肉体も、ポツンと単体で、ここにあるわけではない。存在には必ず「背景」がある。つまり、この存在が、その存在として、ここにあるための条件がある。私には両親があり、その両親にも両親があるといういのちの連鎖だ。そして、その「背景」に思いを巡らせると、これも果てしなく遡れる。
この遡りを突き詰めていくと、この世にいのちが生まれたときまで遡れる。そこから切れ目なく、何十億年という連鎖を経て、私の〈いま〉が在る。こうなってくると、「空間(世界)」も「時間(歴史)」もすべてが私自身の背景となる。私が目にしている、この光景は、まさに私のいのちそのものだった。
これがいのちが成り立っている〈真実〉のあり方だ。しかし、だ。それはどこまでも理屈で類推した認識であって、私の「実感」にはなり得ない。たとえば、ひかりにも速度があって、我々が目にしている太陽のひかりは、八分前のひかりだそうだ。太陽と地球との距離は、一億四千九百六十万キロメートルもあるからだ。ただ、八分前のひかりを見ているとは、実感できないし、私が八分前に移動することもできない。これはあくまで物理理論上の「真理」であって、「実感」とはならない。
これと同じように、法性の理論は「道理」であっても、それを我々が「実感」できるわけではない。この「道理」と「実感」の棲み分けが大切だ。そして、この「実感」が、我々の住処である。
『歎異抄』第九条でも、「久遠劫よりいままで流転せる苦悩の旧里はすてがたく、いまだうまれざる安養の浄土はこいしからずそうろうこと、まことに、よくよく煩悩の興盛にそうろうにこそ、なごりおしくおもえども、娑婆の縁つきて、ちからなくしておわるときに、かの土へはまいるべきなり。」と述べられている。
この娑婆は「四苦八苦」の苦しみの場所なのだから、この苦しみから解放された「安養の浄土」へ往きたく思うのが、当然ではないか。しかし、自分の「実感」から言えば、いくら素晴らしいと、話として聞いてはいても、ちっとも、そんな浄土へ往きたいとは思えない。やはり、「四苦八苦」の娑婆が恋しくて恋しくて、ここから離れることができない。
「安養の浄土」は、苦しみから解法される場所なのだから、恋しく思うのが道理だろうけれども、そうは思えない。そう思えないのは、そう思えなくさせているものがあるのだ。それこそが煩悩であり、その煩悩が苦しみにしがみつかせているのだから、よくよく煩悩が猛り狂う如く、盛んに起こっているのだ。
だから、どこまで名残惜しいと感じたとしても、すべての生理的機能が停止し、静まりかえったとき、「安養の浄土」へと旅立つのだ。こんな感じに読める。
やはり、どこまでも煩悩というフィルターを通さなければ、凡夫は凡夫として存在できないのだ。その煩悩とは、「貪欲」だ。「実感」とは、「貪欲」が感じ取ることすべてだ。
これが「苦悩の旧里」だ。しかし、捨てがたい「苦悩の旧里」とは、「過去」であり、「いまだうまれざる安養の浄土」とは「未来」である。それを同時に成り立たせているのが、〈いま〉だ。この〈いま〉の内容が、「過去」と「未来」を演出しているだけだ。つねに問題は、〈いま〉以外にはないのだ。ただ、〈いま〉は、いつでも「実感」された〈いま〉でしかない。それは「貪欲」の捉えた〈いま〉だ。ここが自己の居場所だが、この「実感の〈いま〉」を通して以外に、「永遠」を思うこともできない。「実感」を虚像だとあぶり出してくれるものが「永遠」なのだから。「実感」が消えてしまったら、「永遠」とも出遇うことができない。