「念仏」という言葉に戦慄する

「念仏」という言葉を目にしただけで、「はいはい、分かりましたよ、念仏ね」という印象。また「もう念仏はたくさんです」という印象。あるいは、「そうですね、浄土真宗だから念仏ですよね」という印象。または、「念仏なんて、何の役にも立ちはしない」という印象。
 もう、「念仏」という言葉を目にしただけで、あるいは聞いただけで、我々の頭の中には、さまざまな意味の乱反射が起こる。私は、近頃、そんな「念仏」という言葉に戦慄している。
 そうそう、この「念仏」という言葉に戦慄していたのが、「親鸞」ではないか、と思った。
 あっ、その「親鸞」は皆さんがご存じの親鸞ではない。「〈真実〉のフォルム」としての「親鸞」だ。だから、実際にこの世を生きていた生身の「親鸞」であっても、あるいはなくても、どちらでもよい。
 この「念仏」という言葉は、人間にとって、永遠に「不可知」でなければならない。
なぜなら、人間の受けとめ、つまり、「解釈」を拒否するものだからだ。
 つねに、私の知っているところのものではない。だから、「念仏」という言葉はあっても、その「意味」は、決して人間には開かれていない。
 それはいわゆる、「肉食妻帯」という言葉と同じ位相にある。「肉食妻帯」という人間の有り様は、人間が、それを解釈をしようとする試みをことごとく拒否する。少しでも「念仏者」であろうとしたら、それを許さないはたらきだから。「親鸞」は、「念仏者と見えるように振る舞うことは、牛盗人よりも悪いことだ」(『改邪鈔』)と言っている。それは、自己肯定という安全圏がすべて奪われることだ。
 人間が「解釈」ということをする生き物である限り、そこには必ず自己肯定がつきまとう。それを拒否するものが、「肉食妻帯」という人間の「解釈」が届かない、そのままの有り様だ。
 しかし、だ。人間は自己肯定の煩悩なしでは生きられない。
 それだから、人間が自己肯定しようとする、その足下から、それを引っ繰り返し、引っ剥がそうとする力、つまり他力がはたらく。「他力」と人間が命名することのできない「他力」の作用だ。
 人間が「救い」とか、「他力」と言えば、それはすべて自己弁護でしかない。「どれほど罪を犯そうと、必ず救われる」という表現をする、その自己は何処に立って、それを言っているのだろう。そう言い切れる場所は、「阿弥陀さん」だけではないか。それを人間が模倣して表現するところには、やはり、必ず自己弁護が張り付いている。そこまで言い切って来て、そう言った自己弁護の足下から、それを覆そうとするはたらきがある。つねに「向こうから」やってくる。
 人間は、すべて自己弁護だ。
 それに向かって、そこに向かって、「他力」以外になしと迫ってくるもの。
『歎異抄』第13条の「本願ぼこりといましめらるるひとびとも、煩悩不浄、具足せられてこそそうろうげなれ。それは願にほこらるるにあらずや」という批判が、それを言い当てている。(現代語訳「本願ぼこりだと言って、そのようなひとは往生できないと誡めておられるひとびとも、やはり煩悩や罪のけがれをことごとくそなえておられるのでありましょう。それは、とりもなおさず、本願にほこっているのではないでしょうか。」)
 「本願ぼこり」とは、私の言う「自己肯定・自己弁護」のことだ。つまり、「自己肯定・自己弁護」をダメだと言っているお前こそ、「自己弁護・自己保身」以外では生きていないんだぞ、という厳しい批判だ。
 それを第九条では、「煩悩のなきやらんと、あやしくそうらいなましとそうろう」と更に批判している。
 こういう批判を受けると、何度、聞いても見ても、「念仏」という言葉に戦慄しなければならない、と思う。
 ついつい、「念仏」という言葉を分かったことにしてしまう自分を、遠目に見られなければならない。
 たとえ、どれだけ、「念仏」という言葉を使おうと、どれほど「念仏」という言葉が身についてしまってもだ。決して「既知」の領域に飲み込むことができない。
 「念仏」という言葉を知らなかったときの自分を、ちゃんと確保しておかねばならない。
信仰の究極は、信仰をもっていないひとと同じにならなければならないと言った、吉本隆明は正しい。これは「〈真実〉のフォルム」に適っているから、「正しい」のだ。
 「戦慄」という言葉の意味は二つある。それは念仏を知らなかったころの自分と出会う戦慄であり、また、新たに念仏という言葉に、〈いま〉出会い直す戦慄である。この〈いま〉は、絶対、「過去」に飲み込まれることのない、〈いま〉であると付け加えておこう。