心臓の鼓動など、普段は、ほとんど感じない。そんなものは忘れて、日常を生きている。すべてが「当たり前」という幻想の中に包まれていく。
だが、ふと心臓の鼓動に意識が行くときがある。そのとき、「ああ、これが本当のお念仏だなあ」と感じた。そして、これを親鸞も感じていたのだろうか、と思った。
親鸞の直観した念仏は、もはや、口で発声するという表層行為を食い破り、もっと深層から突き動かしてくるものだ。鈴木大拙が、「大行」を「great living」と訳さなければならなかった理由は、そこにあるのだろう。「living」とは、「生きていること」である。それは「生きているコト」であり、「生きているモノ」ではない。
モノは眼で見ることができるが、コトは見えない。
それだからと言って、それを「生かされている」と表現してしまうと、〈真実〉から逸れていってしまう。どこまでも、私の実感から言えば、「生きるようにさせられている」である。「生かされている」と言ってしまうと、恩寵主義へ傾斜する匂いがある。
「生きるようにさせられている」と言えば、自分では、まったく、生きるつもりはないし、むしろ、「生老病死」という四苦八苦を背負わされた被害者というニュアンスを醸し出す。
つまり、これが「唯除された者」の実感ではないか。
それをペシミスティックに言うのでも、オプティミスティックに言うのでもなく、つまり、他者に向かって言うのではなく、こっそりと、阿弥陀さんに向かって表白する者でありたい。
気がつけば、そこに鼓動の響きがある。自己の身体の内部で、ドン、ドン、ドン、ドンと。ああこれが、〈ほんとう〉のお念仏だったとは。