「いまから、ここから、私から」

 元日に真宗会館の修正会で開催された法話のテーマを、「〈私〉から始まる〈真・宗〉」にした。
 今年は、親鸞聖人お誕生八百年・立教開宗八百五十年の慶讃法要が、東京教区で四月に開催される。ということは、〈真・宗〉は八百年前に開かれ、そこからこの世に存在したということになる。
 これは歴史的意味場で言われているので、歴史的な観点から見れば正しい。しかし、信仰の立場から見れば、それは違う。信仰の立場から見れば、〈真・宗〉は〈私〉から始まるものである。
 正確に言えば、「いまから、ここから、私から」始まるものである。だから、「客観的」に始まっているように見えても、それは絵に描いた餅だ。
 本質論から言えば、〈私〉に実感されたところに始まるのだ。仏教という言語体系は、すべて「如是我聞」で構成される。つまり、「その通り、と私に受けとめられたもの」だ。その「我」が抜ければ、どこにもその言語体系は、存在しない。
 これは、親鸞が書いた「浄土和讃」の「弥陀成仏のこのかたは いまに十劫をへたまえり」のこころと通じている。これを通時的に解釈すれば、「阿弥陀さんが成仏されてから、いままで十劫(永遠)という時間が経ちました」となる。これは自分が救われようが救われまいが、どちらでもよいという認識から生まれる解釈だ。皆が、そう言っているのだから、たぶん間違いないことなのだろうと、追認する解釈である。だから、自分が抜けている。
 だが、共時的に解釈すれば、「阿弥陀さんが成仏された十劫と、〈いま〉が同時に成り立つことを私が感得しました」となる。
 十劫の昔に「弥陀成仏」という出来事が成立した。しかし、成立したときをどこから量っているのかと言えば、〈いま〉である。〈いま〉という計測点が抜ければ、「十劫」を量る起点がなくなる。つまり、〈いま〉と「十劫」は同時に成り立たなければならない。〈いま〉という地点がなければ、「弥陀成仏」は過去の出来事に終わってしまう。「いま」と「弥陀成仏」は同時に成り立つ出来事だと知られて、初めて、「救い」が「いまから、ここから、私から」に成り立つのだ。
 「いまから、ここから、私から」〈真・宗〉は始まる。もっと言えば、だから、まだ始まってはいない。いつでも、「いまから」始まるものだからだ。「いまから」は永遠に、「いまから」であって、それが「いつか」という過去に飲み込まれることがない。だから、本当に生々しいものが〈真・宗〉である。
 その生々しさを引き起こすはたらきが、阿弥陀さんの「反問性」だ。「反問性」とは、つねに人間が握ろうとする結論(固定観念)を、「それが結論か」と問い返して下さるはたらきだ。「自分は信仰を得た」とか、「信心を得た」とか、「成仏した」などと、自分を自分で結論づけて安心しようとする。そもそも、「私は『私』である」と結論づけていること、そのことが問題なのだ。『私』とは「私」を超えて、「私」を成り立たせているものだから、「私」は『私』を結論づけて、定義することができない。『私』は、関係性そのもので出来上がっているのだから、その関係性を微細に分析しても『私』は取り出せない。いくら自己紹介をしても、『私』の周辺情報しか述べることができない。『私』そのものを「私」は捉えることができないし、語り尽くすことができない。
 『私』の名前は、『私』が付けたものではない。他者(両親等)が付けたものを、『私』と呼んでいるのだから、これも不思議なことだ。本当は『私』が付けてこそ、『私』の名前ではないか。
 しかし、人間は何でも分かりたいと欲求する生き物だ。だから、「分かって」安心したがる。これは善いことでも悪いことでもない。人間が人間たる所以でもある。ホモサピエンスとは、「賢いヒト」という意味だ。
 ただ阿弥陀さんは、人間に決して分からせないはたらきだから、人間が一番嫌がることでもある。
 別の言い方をすれば、脳は楽をしたがる臓器、という意味だ。何にでもレッテルを貼り、名前を付けることで分かったことにして、それでお終いにしたがる。でも、〈真実〉は、決して人間に分からせない。なぜなら、「分かる」ということが人間を、本質的には喜ばせないからだ。一瞬の「知」は満足させても、「たましい」を喜ばせない。人間は「分かりたい」のだが、分かってしまったものに、人間は感動しないからだ。阿弥陀さんは、人間に対して、永遠に感動を与えようと願っている。だから、決して「分かる」という世界に持ち込まれないようにガードして下さる。
 話の中で、Amazonの「お坊さん便」についても触れた。これが始まったときに、ずいぶん話題を呼んで、全日本仏教会にも意見を求められたことがあった。私も個人的に、意見を述べたことがある。何がよくないのかと言えば、それは「定価」という観念である。「定価」とは、私の言う「結論」である。つまり、葬儀のお布施はあくまで「お気持ち」の世界であり、ゼロでもあり百でもあるという性質のものだ。「お気持ち」は質の問題であって、量には還元できない。だから、「お坊さん便」で三万円が「定価」だとすると、施主は「定価」で安心し、坊さんも「定価」で納得するしかない。「定価」とは、そこにわだかまりが生まれないための装置である。お互いに割り切ることのできる装置だ。
 それでいいじゃないかと言われる。資本主義は、モノに価値づけすることで成り立つ世界なのだから。しかし、「定価」がなぜダメなのかと言えば、そこにわだかまりが生まれないからだと、私は言った。わだかまりとは、施主からすれば、「こんな安価なお布施でよかったのだろうか」とか、「払いすぎたのではないか」という思いだ。また坊さんからすれば、「これしかもらえないのか」とか、「これはもらい過ぎではないか」という思いが湧く。このわだかまりとは、いわゆる「煩悩」だが、「煩悩」が動くことによって阿弥陀さんとの関係が、初めて開かれる。つまり、「定価」とはわだかまりをなくすことによって、阿弥陀さんとの関係を閉鎖してしまう、危ない考え方である。だから、「定価」はよくないと私は言った。
 これは葬儀のお布施に特化した話だが、そもそも、私たちが生きている世界に「定価」は存在しない。野菜や肉や家財道具など、どれを採ってみてもモノに値段が付けられているが、あれは人間が計量してはじき出した「幻想」に過ぎない。スーパーマーケットに行けば、リンゴ一個にも値段が付いている。それは「定価」だ。しかし、リンゴ一個が、その値段に見合うものかどうかは分からない。近頃は、ホテルの宿泊代金もAIという人工知能が計算して設定されているという。人間が、そのときの相場を計算するのはとても大変だし、誤算して損害が出る場合もある。だから、安全策をとって、AIに、その業務を委任にさせているそうだ。機械が人間に命令しているかの如き状況が、あちこちで起こっている。あたかもチャップリンが作った映画、「モダンタイムス」の現代版だ。
 例えば、下界で売っている水の値段と、富士山の頂上で売っている値段が違うのはなぜか。同じ水であれば、同じ値段でなければならないのに、値段が違うのは、人間の欲望が絡むからである。人間が必要としないものは安く、必要とするものは高いということだ。下界では、ミネラルウォーターも自動販売機で、たくさん売られている。だから、どこでも水は手に入る。しかし、富士山の山頂では、売っている店も少なく、それに対して水を欲しがる人間はたくさんいる。だから、もしあなたが水を欲しいのであれば、下界の値段より高価なのは当たり前だ。もし欲しくないのなら買わなくても結構ですよと唆してくる。つまり、人間の欲望に比例して価値が変動する。また富士山の頂上まで水を運搬した労力に対する価値も水に含まれている、と解釈する。そういう観念を理解しなければ、頂上の水の値段が高いことは納得できない。
 それがもし、砂漠のど真ん中であれば、水の値段はどれほど跳ね上がるかは分からない。
 いまから四十年ほど前、インドを旅行したが、ここには「定価」という観念が浸透していなかった。人間の欲望の強弱によって、モノの値段が変わっていた。だから、お店でものを買うとなれば、交渉が大変面倒だ。店主は、何とか高く売ろうとし、客は、何とか安く買おうと交渉する。あらゆるものが、交渉次第なので、買い物にものすごく時間がかかる。世界の三大商人は、「ユダヤ人、インド人、中国人」と言われているが、それもそのはずだと納得させられた。
 土産物屋で数珠を買おうとしたが、商品の口上が実に上手かった。私は香りがよかったので沈香(香木)で出来た数珠を買おうとしたが、結構な値段がした。私はあまりに高価ではないかと店主に言った。するとインド人の店主、それもものすごく流暢な日本語で店主が、こう言うのだ。「この数珠が高いのには理由があるのです。これは〇〇という香木で、希少価値が高いのです。安いものは数珠玉に沈香の薫りを塗ったもので、時間が経てばすぐに消えてしまう偽物です。しかし、この数珠は本物で、いい加減なものではないから高いです。もしお客さんがこれを買って日本に持って帰って、香りが消えてしまったら、どう思いますか。偽物を買わされたと言って、私に怒りをいだくでしょう。そしてもうあんなインドへは二度と行きたくないと思うでしょう。そうなったら大変です。だから、私はいい加減な商売はしたくないのです。この数珠が高いのは、そういう理由なんです。」
 こんな流暢な日本語で説得されたから、納得せざるを得なかった。しかし、「定価」がない世界を旅して、本来、「定価」はあってないものだと、つくづく思い知らされた。
 「定価」とは、いわば資本主義という観念装置が生み出した「幻想」であることは間違いない。需要と供給のバランスという「幻想」の中での出来事だ。本質は、モノには値段を付けることができない。肉や野菜も、あれは「いのち」であって、「食物」ではない。だから、その「いのち」に値段をつけることは、本当は、できない。
 宅配便もよく利用するが、我が家まで荷物を届けてくれる配達員には頭が下がる思いだ。彼らの労働には、それなりの対価があり、それを本人も、そしてお客も理解した上で利用している。しかし、彼らが荷物を運ぶ労働に見合った「価値」は、本当は金銭に還元できない。もし彼らが荷物を運ばなければ、注文したモノがお客に届かない。まあ、彼もお客も、「労働に見合った価値」という幻想を共有しているから、宅配便が成り立っている。でも、それは本質的に幻想の中での出来事だ。
 我々、現代人であっても、本当はそれが「幻想」だと薄々勘づいてはいる。だから、宅配便の配達員に、「ご苦労様」とか「有り難うございます」とお礼の言葉を掛けるではないか。資本主義の論理であれば、これは労働に対する対価を支払っているのだから、お礼など言う必要ないはずだ。ところが、それでは済まないものがある。なぜならば、労働に対する「定価」は幻想だと、どこかで勘づいているからだ、と私は思う。
 この「幻想」を幻想だと見抜く智慧が〈真・宗〉というものだ。
 「定価」など、本当は幻想であり、固定した価値などどこにも存在しない。そもそも、世界は無量無数の関係性で出来上がっているのだから。仏教は、これを「縁起」とか「因縁性」と表現してきた。在るのは関係性のみであって、固定的な実体はないと。これは自己という存在の在り方でも同じである。「自分」と言えば、普通は皮膚で包まれた人体を指してつかっている。しかし、それは「自己意識」、つまり「思い」であって、事実は皮膚で包まれた内側だけでなく、外側も含めて私の身体である。食べるもの、吸うもの、飲むもの、それらすべてが身体でもある。もし空気を数分でも吸わなければ、私の生理体は活動を静止することになるだろう。だから、空気は私のいのちの一部分である。つまり、関係性そのものが身体である。それをもっと広げて言えば、この世界が私の身体である。それを私は「〈一人一世界〉」と名づけている。
 結果的に、私の身体は「一切衆生の特殊」として、この世に存在するが、関係性が少しでもズレていれば、私は貴方であったかも知れないし、ゴキブリであったかも知れないのだ。そう思うと、私の身体は、「一切衆生の典型」としてある、とでも言える。「一切衆生の特殊」としての身体は、「ある身体」だが、「一切衆生の典型」としての身体は「あったかも知れない身体」である。
 私は、動物学的には、哺乳類・霊長類・ヒト科・ヒト属の「ヒト」だ。この「ヒト」もポツンと突然、この世に現れたものではないだろう。およそ二百万年前に出現したそうだ。こういう考えから、「系統発生樹」のような発想が生まれた。分子生物学の福岡伸一さんは、分子レベルの身体をこう評している。「私たちの身体は分子的な実体としては、数カ月前の自分とはまったく別個になっている。分子は環境からやってきて、一時、淀みとしての私たちを作り出し、次の瞬間にはまた環境へと解き放たれていく。(略)私たちの身体は変わりつつ、かろうじて一定の状態を保っている。その流れ自体が「生きている」ということなのである。(略)生命とは動的な平衡状態にあるシステムである。」(『動的平衡』)と。
 分子レベルで見る限り、身体(肉体)と環境とは融合しているのであって、どこにも切れ目がない。分子レベルで見れば、この肉体が環境であり、環境が肉体でもある。これを譬喩的に言えば、私という身体には、他の生物的部分が内包されていることになる。それこそ、消化を司る腸には、何兆個の腸内細菌が住んでいて、彼らの世界が、彼らの秩序で運動している。これは私という自意識が動かしているわけではない。だから脊椎動物的部分、哺乳類的部分、類人猿的部分、さらにミクロの世界でみれば、細菌の部分など、さまざまな生物の部分が、私の身体となって、いまここに在る。
 中島みゆきの「昔から雨が降ってくる」は、それを歌っている。
「昔、僕はこの池のほとりの 一本の木だったかもしれない 遠い空へ手を伸ばし続けた やるせない木だったかもしれない あの雨が降ってくる 僕は思い出す 僕の正体を
昔から降ってくる なつかしく降ってくる
昔、僕はこの海のほとりの 一匹の魚(うお)だったかもしれない 話しかける声を持とうとした 寂しがる魚だったかもしれない あの雨が降ってくる 僕は思い出す 僕の正体を 昔から降ってくる なつかしく降ってくる
昔、大きな恐竜も 昔、小さな恐竜も 同じ雨を見あげたろうか 同じ雨にうなだれたのだろうか あの雨が降ってくる 昔から降ってくる
昔、僕はこの崖の極みの 一粒の虫だったかもしれない 地平線の森へ歩きだした 疑わない虫だったかもしれない
あの雨が降ってくる 僕は思い出す 僕の正体を
昔から降ってくる なつかしく降ってくる あの雨が降ってくる なつかしく降ってくる」
 中島みゆきは、木・魚・虫を見つめたとき、そこに自己自身のいのちの背景を直観したのだろう。自分は「一本の木だったかもしれない」、「一匹の魚だったかもしれない」、「一粒の虫だったかもしれない」と歌い上げる。木であり、魚であり、虫であった可能性もあったのだ。たまたまの縁で人体に留まっているけれども、これはあくまで「たまたま」、つまり偶然の為せることである。  
木と魚と虫は、自分の「正体」だとまで歌う。そして三回、「僕は思い出す 僕の正体を 昔から降ってくる なつかしく降ってくる」と繰り返される。自分にまでたどり着いたいのちの歴史は、「昔から降ってくる」、つまり永遠を背景としている。
 縁にも「プラスの縁」と「マイナスの縁」とがあるように、身体も、その両面がある。「プラスの縁」とは、いま、このように、あることを成り立たせている縁である。もし、両親が出会わなければ、私は誕生していない。もし私が生まれるために、十億七千万人の先祖が出会わなければ、私は存在していない。これは「プラスの縁」である。
 「マイナスの縁」とは、もし十億七千万人の先祖が、違う排列の出会い形をしていたら、私はここに居ないのだから、その出会いが違っていなかった縁である。いまこのように在ることの縁は、同時に、そうではなかった縁のあったことを証明している。
 よく法座で話されることだが、「もし貴方に、この法座があるという知らせが来なかったら、貴方はここに参加することはできなかったでしょう。またこの法座に参加したいなという気持ちが起きなければ、参加されなかったでしょう」、と。これは「プラスの縁」である。しかし、逆に、「あなたがここに来られたのは、貴方が病気にならなかったから。あるいは、途中で電車などの事故がなかったから、ここに来られたのでしょう」、と。これが「なかったことの御縁」、つまり「マイナスの縁」である。縁はプラスとマイナスの両面で成り立っている。
 話は思わぬ方向に来てしまった。つまり、自己の固定観念を問い返すことによって解体してくれる阿弥陀さんを、我々は本尊としているということだ。
 浄土真宗は仏教界の一神教と、言われている。まあ大乗仏教が起こってから、大日如来や弥勒菩薩など、さまざまな「一仏信仰」が発生したが、ここまでラディカルな一神教は、浄土真宗だけだろう。全世界、津々浦々の寺院から家庭に到るまで、阿弥陀如来立像以外の本尊が安置されている場所は皆無だからだ。しかし、本尊を安置するということは、仏の偶像を前に置くことになる。これは純粋性から言えば、とんでもないことだ。
 神仏は、人間の思いを超越しているものなのだから、人間の手で彫ったり描いたりしたら、それは偽物になる。そこから、なぜ偶像を安置するのかという問い、つまり反問性がはたらく。結論を急げば、それは一神教の陥りやすい熱狂を冷却するためなのだ。一神教は、神と合一したがる傾向性の信仰だ。その信仰が純粋性を目指せば、偶像は破壊される。それは純粋性を追求していけば当然、到り着く知の在り方である。しかし、純粋性を求めて偶像を捨ててしまえば、自己の頭の中にある神を外化して対象化できないのだ。自己のこころの中に立ち現れる神仏を偶像として、自己と切り離すことができなくなる。人間のこころの中で思い描いた神仏のイメージは偶像なのだ。それが偶像だと見ることができないと、その偶像の奴隷になってしまう危険性がある。
 一神教の熱狂は、自己のこころの中に描いたイメージが「偶像」だと見えなくなるところに起こる。阿弥陀さんは、どこまでも偶像である。仏教語で言えば、「方便」である。「方便」だから、どれほど、人間のこころの中でイメージしようとも、それは「純粋な仏」ではないのだ。「純粋な仏」とは人間のこころでイメージすることの不可能なもの以外ではない。目で見ることのできる神仏だけが「偶像」ではない。人間のこころの中に沸き起こるイメージも「偶像」なのである。この分離ができないと、人間は、こころの中に思い描いた神仏の奴隷になってしまう。神仏と人間の棲み分けができることで、ようやく一神教の熱狂から脱することができるのだ。
 阿弥陀さんは、人間のこころの中でどのようにイメージされようとも、それは偶像だと叫ぶ仏さんだ。偶像だと叫ぶことで、純粋性を確保する。人間と絶縁させることで、純粋性を人間に感じ取らせる。これが、阿弥陀さんが「反問性」という運動態そのものであることを示している。
 だから、目の前にどれほどの阿弥陀如来の像を安置しようとも、その像を拝むことを第一の目的とはしていない。形式的には、目の前の阿弥陀さんに向かって合掌するのだが、それはあくまで「形式」である。「形式」とは、こころの表れという意味と、こころを促すという意味の両義がある。こころの表れとは、感動がまずあって、それが身体行為となって表現されるという意味だ。また、こころを促すは、こころがどういう状態にあろうとも、身体的行為を取ることによって、こころが整えられ、本来の在り方へ立ち帰らせるという意味だ。教学用語で言えば、こころの表れとは、「信→行」であり、こころを促すとは、「行→信」である。
 そもそも、〈真・宗〉は、礼拝の対象(目的)を持たない信仰だ。それを厖大な説明を省いて、単語に凝縮すれば、「南無阿弥陀仏」という言葉となる。これを穏やかに解釈すれば、「阿弥陀仏に南無する」と読む。しかし、荒ぶる解釈をすれば、「阿弥陀仏」とは、人間を「南無」させる作用だから、「南無」に還元されてしまい、「阿弥陀仏」は消え、「南無」の一語に凝縮する。だから、「南無阿弥陀仏」の本質は、「南無」の一語になり、あたかも帰依の対象(目的)であるかの如き「阿弥陀仏」は消えてなくなる。これが対象(目的)を持たない信仰という意味だ。
 「阿弥陀仏」は人間を「南無」、つまり帰依させるという形で関係を結ぶ。つまり、「南無せよ」という命令形で関わる。親鸞は、それを「本願招喚の勅命」(『教行信証』行巻)と呼んでいる。これが「純粋性」が、人間に関わるときの健康的な関わり方なのだ。
 しかし、この命令には裏があって、人間が、永遠に従うことのできない命令なのだ。もし、人間が、一度でもこの命令に従ってしまったならば、阿弥陀さんが「南無せよ」と命じる必然性が減少してしまうからだ。お母さんが子どもに、オモチャを片付けなさいと命じて、もし子どもがお母さんの命令に従って、素直にオモチャを片付けたならば、もはやお母さんは、子どもに命じる理由がなくなってしまうだろう。これと同じ形をしている。だから、永遠に、この命令に従えない者にのみ、永遠に命令が発令されることとなる。
 教学用語で言えば、本願第十八願文の末尾にある。「唯除五逆 誹謗正法」と「唯信」の関係である。阿弥陀さんの命令から「唯除」された者のみに、「唯信」を成り立たせるのだ。
 ここまで、真宗会館の修正会で話したこと、また不足していたこと、さらにこれを書きながら浮かんできたことなどを補って記してみた。法話とは、私がスピーカーとなって発語する行為なのだが、実は、私はあくまでスピーカーであり、真の発語促進者は聴衆なのだ。だから聴衆の奏で方によって、違った演奏が生まれるのは当然なのだ。そして真夏の夜の花火大会のように、大輪の法の輪が広がり、静かに散って消えていく。曇鸞大師の『浄土論註』にある「阿修羅の琴」の演奏が、それを表している。「阿修羅の琴の鼓する者なしといえども、音曲自然なるがごとし」だ。琴には、それを奏でる演奏者がいなければ音は鳴らないはずだ。しかし、「阿修羅の琴」は演奏者がいなくても、おのずから琴の音が鳴り響くのだそうだ。これは法座に於ける、法話の音楽を表しているのではなかろうか。誰が演じているのか。演者はいるように見えて、本当はいないのだ。演者は存在せず、ただ、そこに法話の音楽だけが鳴り響いている。