『仏説阿弥陀経』に、六方段というものがある。「①東方②西方③南方④北方⑤下方⑹上方」の六つの方向で全方向を暗示し、そこに無量の仏がましますと書かれている。たとえば、①の東方には「阿閦鞞仏・須弥相仏・大須弥仏・須弥光仏・妙音仏、かくのごときらの恒河沙数の諸仏ましまして、おのおのその国にして、広長の舌相を出して、遍く三千大千世界に覆いて、誠実の言を説きたまう。」とある。
現代語訳は、こうだ。「東方の世界にも、また阿閦鞞仏・須弥相仏・大須弥仏・須弥光仏・妙音仏など、ガンジス河の砂の数ほどのさまざまな仏がたがおられ、それぞれの国でひろく舌相を示して、世界のすみずみまで阿弥陀仏のすぐれた徳が真実であることをあらわし、まごころをこめて、〈そなたたち世の人々よ、この《阿弥陀仏の不可思議な功徳をほめたたえて、すべての仏がたがお護りくださる経》を信じるがよい〉と仰せになっている。」(『浄土真宗聖典 浄土三部経―現代語版―』本願寺出版)
この現代語版には、「舌相」に註が付いている。そこには「仏の舌は広く長くてその顔面をおおうとされている。ここでは三千大千世界をおおうといわれている。これは仏の説くところが真実にして虚妄でないということを示すものである。仏の三十二相の一。」とある。
私は、この仏の三十二相の一つである「舌相」が、どういうメタファーなのかが分からなかった。通常の理解では、「仏の顔面を覆うほど大きな舌」を意味するのだが、ここでは「三千大千世界に覆いて」だから、あらゆる世界を覆い尽くすほどの「広く長い舌相」である。もし物理的に解釈すれば、それぞれの仏が出す舌で、互いにぶつかり合ってしまうではないか。
これは、物理的に解釈するべきではないだろう。まして、「広長舌相」が、阿弥陀仏を讃嘆するためだけの譬喩だとしたら、あまりに陳腐ではないか。
そして、ようやくこのメタファーの謎が解けた。これは私の言うところの、〈一人一世界〉を暗示したかったのではないか。代表的な仏は数人で代表されているが、その他にもガンジス河の数ほどの仏が「広長舌相」で世界を覆っているという。これは一人の仏が一つの世界を覆っているのだ。それもガンジス河の砂の数ほどの仏が、世界を覆っているということは、無量無数の仏が、それぞれに〈一人一世界〉を持っているという意味ではないか。
だから、いくらたくさんの仏があっても、互いにぶつかり合うことがない。なぜなら、それらの世界は、互いに包摂し合っているからだ。「舌相」とは、世界を覆う意味世界を暗示しているのだろう。
一仏が一仏国土を持つという意味は、やはり、〈一人一世界〉のことだったのだ。
どうしても、我々は「一世界全生物包摂世界観」を基盤にして「世界」というものを発想してしまうので、これが邪魔をしていたのだ。つまり、一つの世界にさまざまな仏がたくさん存在しているという発想だ。これが邪魔をして、この「舌相」の意味を見えなくしていたように思う。