「みずから」は自力・「おのずから」は他力

「自ら」と書くと、「みずから」と読むか、「おのずから」と読むか、ちょっと戸惑う。
それで正しい送り仮名を調べると、「みずから」は「自ら」と振り、「おのずから」は、「自ずから」と振ると書かれていて、これなら混乱しない。
 それはそうなんだが、小生は、これを両方とも平仮名で表記するように心掛けたいと思う。どうしても漢字を使うと、「自ら」なのか「自ずから」なのか、その都度、どっちだったかなと、一瞬たじろぐからだ。
 ところで、竹内整一さんは、この「みずから」と「おのずから」に着目して、以前から論を展開されていた。
 竹内先生とは、小生が2000年に、親鸞仏教センターにいたときからのご縁だったが、2023年9月30日に心臓の不具合で、77歳で亡くなられていた。
 そのことを今年になってから知り、驚くと同時に、御礼も言えなかったことを、少し悔やんだ。
 ひとは他者の死に際して、驚きたじろぐ。三人称の死ならまだしも、二人称の死は、それが強烈だ。ところが、蓮如さんは疫病が流行り、人々が亡くなっていく有り様を見て、次のように言っている。
「当時このごろ、ことのほかに疫癘とてひと死去す。これさらに疫癘によりてはじめて死するにはあらず。生まれはじめしよりしてさだまれる定業なり。さのみふかくおどろくまじきことなり。しかれども、いまの時分にあたりて死去するときは、さもありぬべきようにみなひとおもえり。これまことに道理ぞかし」(『御文』第四帖第九通)と。
 ひとの亡くなる有り様を見て、「さのみふかくおどろくまじきことなり。」と言う。
それは「生まれはじめしよりしてさだまれる定業なり」だからだと。
 いまさら死ぬことに驚くことはないのだ、そもそもこの世へ誕生したことが、死の根本原因であって、疫病で亡くなることは、あくまで縁(条件)なのだ。だから亡くならないひとは誰一人としていないのだ。そんなことくらい、前々から十分に分かっていることだろう。何を今さら、慌てふためき驚くようなことがあるのか、と。
 そう言われてみると、確かにそうだ。まったく、〈真実〉だ。それはいのちの道理として十分に分かってはいても、その道理を、その通りと、平然と受け取れないのも凡夫の偽らざる有り様だ。
 それで蓮如さんも、「しかれども、いまの時分にあたりて死去するときは、さもありぬべきようにみなひとおもえり。これまことに道理ぞかし」と言っている。
 「いまの時分にあたりて」とは、いま現在、人々が亡くなっている有り様を指しているのだろう。そして「さもありぬべきようにみなひとおもえり」と続けて言う。
 「さもありぬべきように」とは、道理としては、誕生が死の原因だと、頭では分かっていても、いざそれが自分の近いところで起これば、それが道理だと平然と受けとることはできない精神状態を言っているのだろう。
 その凡夫の実情をご覧になり、「これまことに道理ぞかし」と受け取り直している。
この悲嘆すべき実情が、「これまことに道理ぞかし」と受け止め直すには、相当な時間がかかるはずだ。文章としては、一続きにスラッと書かれているが、「さもありぬべきようにみなひとおもえり。」と「これまことに道理ぞかし」の間には、もしかしたら、そのひとの一生という時間が差し挟まれているのかも知れない。
 しかし、我々は、それを、人生をかけれでも、「まことに道理」と受け取り直さなければ、満たされないものを持っているのだろう。誰かが、「受け取り直せ」と命じているわけではない。いのちそのものが、そう要求しているのではなかろうか。
 なぜならば、我々、生者は、すべて一人残らず、「先立たれた者」だからだ。この「先立たれた者たち」が、現代社会という「共同幻想」を構成しているだけだ。
「先立たれた者たち」は、「先立たれた者たち」の視線で、すべてを支配する。そこで抹殺され排除されているのは、「死者」だ。「死」を見えないところに排除し、抹殺するべく動いているのが現代社会だ。
 「先立たれた者たち」は、「先立たれた者たち」の価値観で、「死」すら分かったこととして固定観念というタンスの中にしまい込んでいる。しまい込んで分かったことにしているから、「死」を排除できると思っている。果たして、「先立たれた者たち」は「死」を知っているのか。これが「先立った者たち」からの問い掛けである。
 ずいぶん、前置きが長くなってしまった。私の中では、竹内先生がこの世に出された本としては、最後ではないかと思われる本を手に入れた。それが『やまと言葉の人間学』(ペリカン社2024年3月30日)である。その中でも、「みずから」と「おのずから」ということに触れられていた。
「日本語では、漢字「自」は、「みずから」とも「おもずから」とも読む(ちなみに、中国語には、この使い分けはない)。「自」を「みずから」とも「おのずから」とも読んで、とりわけ不思議でないというわれわれには、「みずから」したことと「おのずから」なったこととは別事ではない、という受けとめ方がどこかにあるということである。
 くりかえし使う例であるが、われわれはしばしば、「今度、結婚することになりました」とか「就職することになりました」という言い方をする。そうした表現には、いかに当人「みずから」の意志や努力で決断・実行したことであっても、それらは何らかの「おのずから」のなりゆき・働きでそうなったのだというような受けとめ方があることが示されている。」と。
 この「結婚」と「就職」を例にとって使われる先生の語りを、新鮮な思いで聞いたことを、いまでも記憶している。先生は、「おのずから」は、いわゆる同調圧力に飲み込まれる危険な受けとめでもあり、また「おのずから」のなりゆきで決めた結婚であれば、「おのずから」のなりゆきで別れるという、無責任なこころの構えでもあると述べている。
 確かにそうだなと思える。しかし、先生は一方で、
「この「結婚することになりました」という言い方は、かならずしもすべてが問題のある発想というわけではない。結婚という事態についていえば、どんなに「みずから」努力しても結婚する相手に、“出会う”ということ自体は自力ではできないし、出会いのみならず、そこには、縁とか偶然とか、人の手助けとか、けっして自力だけではない、自分以外の、あるいは自分以上のもろもろの働きが相俟って、やっと結婚という事態にいたりつくのである。それをわれわれは「結婚することになりました」と表現しているのでもあり、それは、ある大事な感受性の表現とみることもできるのである。」とも言っている。
 先生は、古代人が使っていた「やまと言葉」が、時代を超えて、現代日本人の日常的表現にも現れていることを指摘される。これは「やまと言葉」が本来的に持っている感化力なのか、あるいは、日本人の心性そのものが「やまと言葉」を生んできたものなのか。「人間」が先か、「言葉」が先かと問えば、おそらく両者により作られてきた現象なのだろう。
 中世を生きた親鸞にも、有名な「自然法爾」の表現がある。「自然というは、自は、おのずからという。行者のはからいにあらず、しからしむということばなり。然というは、しからしむということば、行者のはからいにあらず、如来のちかいにてあるがゆえに。」と。
 この「しからしむ」を品詞分解すれば、「しから」は、動詞「然り」の未然形、それに使役の助動詞「しむ」が付いたものである。この意味は、「そのように・させる」、「もしそうであるならば・そのようにあらしめる」、あるいは「そうであるならば・そのようにさせる」という意味であろう。まあ「意味」と言っても、「文字」で表現しなければ「意味」は伝わらないという制約があるので、このように書いて、読者のこころで吟味してもらうしかない。
 ただ、その使役の行為主体が、「行者(人間)」ではなく、「如来」だと親鸞は考えている。「如来」と書くと、人物像を連想してしまうが、そうではなく阿弥陀さんの悲愛を擬人化した表現である。
 それで親鸞は、「弥陀仏の御ちかいの、もとより行者のはからいにあらずして、南無阿弥陀仏とたのませたまいて、むかえんとはからわせたまいたるによりて、行者のよからんともあしからんともおもわぬを、自然とはもうすぞとききて候う。」と言っている。
 「南無阿弥陀仏」の表層の意味は、「阿弥陀仏に南無する」だが、深層の意味は、「阿弥陀仏にすべてをまかせる」という意味だ。さらに、阿弥陀仏におまかせするのも、人間の意志ではなく、阿弥陀さんが人間に向かって、「私にまかせる」という思いを起こさせ、その思いを起こした者をこそ救いの世界に迎え取ろうとされるのだから、そこには人間の意志がまったく関与できないのだ、と言っている。
 これは、我々が、「南無阿弥陀仏」と発語するという単純な行為の原理までをも包む理解ではなかろうか。さらに、それは日常のほんのささいな思いや行為にまで及ぶ原理なのだろう。それが『歎異抄』第十三条では、「さるべき業縁のもよおせばいかなるふるまいもすべし」と述べられている。そのように考えたり、そのように行為したりするような必然性がやってきたなら、そのように思い、また行為するものなのだ、という意味だ。
 「真宗教学」では、それを「願力自然」と「業道自然」という用語で分けて考えてきたようだ。親鸞の「自然法爾」は「願力自然」、しかし、第十三条の表現は「業道自然」だと。「願力自然」は、阿弥陀さんの救いの法則性だが、第十三条は、「業道自然」であり、我々人間の煩悩生活を成り立たせる法則性と。
 しかし、この二つを別々のものと考えずに、一つのこととして受け取らなければならないのではないかと思う。そうしなければ、親鸞の言う「救い」は、机上の空論にならないか。「業道自然」とは、いわば「迷いの必然性」を表現した言葉であり、その「迷い」の始発点に「行者(人間)」を設定した発想だ。それと「願力自然」を考え合わせれば、その「迷い」の始発点を「行者(人間)」にするのではなく、「如来」にしなければならない。つまり、「迷い」も「救い」も、ともに「如来」の必然性から引き起こされるとしなければならない。「迷い」は「人間」に、「救い」は「如来」にと始発点を分けたならば、「救い」が生活実感としては成り立たない。
 それを私の直観から再表現すれば、「みずから」は「自力」、「おのずから」は「他力」と言ってみたい。「自力」はすべての思いや行為を自己に還元する発想だから、「みずから」を始発点とする。「他力」は、自己を始発点にせず「事実」を始発点とする。つまり、「みずから」と一点に凝縮しようとする発想が解体され、無限の関係性に溶解される。無限の関係が引き起こしてくるのだから、それは「おのずから」という受け止めになる。この「おのずから」は「事実」なのだ。ところが、それを「事実」とせずに、自己に引きつけ自己の「思い」を始発点に置こうとするのが、「自力」である。
 「自力」は、自己の思いを始発点として責任を取らせようとする。しかし、それは限定的な気がする。「おのずから」という受け止めは、自己の深層からやってくるものであり、それを「自己」という思いで掬い取って、「みずから」と受けとめてはならない。事実、自己のこの世への存在(誕生)は、「思い」から出発してはいない。両親から、さらに祖父母へと、いのちの根っこは拡大していく。いのちは、「おのずから」という世界から出現してきた。これが「事実」である。
 それをいつの間にか、「みずから」という「自己意識」が占領する。やはり、「事実」は「おのずから」であり、「思い」は「みずから」という幻想なのではなかろうか。「おのずから」を「他力」と言ってもよいのだが、もしそれを「他なる力」と言ってしまうと、その「他」を受けとめるための、「自」が想定されてしまう。「自」から見れば、「他の力」と受け取れる。しかし、その「自」が解体されているのが「他力」なのだから、「他力」と受けとめる「自」すら「他の力」となり、やはり「おのずから」という言葉が「事実」を言い当てた言葉に落ち着くのである。
そして「おのずから」とは、存在の大地であるのだから、この世界が言わば、「自己」と化す。この世界が、そのまま自己となるのだから、この世の全責任が自己にあることになる。