池田晶子は『死とは何か』(2009年毎日新聞社)の中で、こんなインタビューを受けている。
「死そのものではなく痛みとか親しい人との別れとか、そういうことを怖れるんじゃないですか。」
それに対して池田は、こう答えている。
「むろん私だって体は痛くないほうがいいですけど(笑)、それだって自然現象じゃないですか。自分だけにあり得ないことではない。そのへんの気がつき方が普通の人より鍛えられているかもしれません。生老病死は当たり前の事象。お釈迦様は四苦八苦と言ったけど、苦しみと捉えたところにお釈迦様の弱点があったのではないかとさえ思う。苦しいと思うのは人間の側の価値。価値と事実は違います。つきつめて考えれば自分だけ別であるはずがない。自分だけはまだ死なないんじゃないかと思ってしまうのが認識の甘さです。だから、いざ死に直面するとジタバタする。なぜこんなことを私が改めて言わなければならないのか(笑)。」と。
ここのところ池田晶子に寄り添って考えてきた。彼女は、すごくよく考えられているし、教えられる部分も多く、その通りだと共感もした。しかし、いま一つ表現に違和感を感じていた。それがこの答え方で、ようやくハッキリした。
それを一言で言えば、彼女は「凡夫」を超えて「阿羅漢(arhan)」に突き抜けてしまった、だ。「阿羅漢」とは「聖者」の意味で、別に他意はない。
「凡夫」であれば、「苦しいと思うのは人間の側の価値。価値の事実は違います。」とは明言できない。この池田の表現は真理であって、どこにも間違いがない。〈真実〉を言い当てた言葉である。「苦しいと思うのは人間の側の価値」とは、「生老病死」を苦しみと見るのは、人間の勝手な価値観であって、その価値観が、「生老病死」を苦しみと見るだけで、それは「事実とは違います」と言い切っている。これも間違っていない。絶対に正しい。しかし、「凡夫」であれば、とてもそこまでは言えないだろうなと思う。そう言い切れるのは、「阿羅漢」だけだ。
「人間の側の価値」とは、私の言葉で言えば、「貪欲(r?ga)」である。「貪欲」とは、自己保身・自己弁護だけを欲する中層の無意識である。この「貪欲」が「苦しいと思う」のであって、それは「貪欲」が引き起こしていることであり、この「人間の側の価値」が、「苦しい」と思わせているのだと彼女は言う。だから猫や犬には、「生老病死」はないと。
これも正しい見方で、非の打ち所がない。しかし、そう言い切れるのは「阿羅漢」であり、「凡夫」には、そうは言えない。「凡夫」は、「いささか所労のこともあれば、死なんずるやらんとこころぼそくおぼゆる」(『歎異抄』第九条)とのみ言いうる。ちょっと風邪をこじらせたり、コロナウイルスに感染したり、ほんの少し体調を崩せば、このまま死ぬのではないかという考えが、強弱の違いはあっても、誰の頭の中にも浮かぶのではないか。この不安感が起こらないのは、もはや「凡夫」ではない。
彼女が「お釈迦様は四苦八苦と言ったけど、苦しみと捉えたところにお釈迦様の弱点があったのではないかとさえ思う。」と言う表現は、「凡夫」には言えないことだ。「生老病死」という「事実」を、「四苦八苦」と感じ取るのは、「凡夫」の「ありのままの事実」である。
彼女は、いわば難行苦行をやり遂げ、ようやく覚りに達した「聖者」のような高みに突き抜けてしまったようだ。それは誰にでも出来ないことであり、まさに偉業だが、「凡夫」の大地から遊離してしまったとも言える。「凡夫」を手放してしまえば、「阿羅漢」だから、何も怖れることなく表現できるだろう。でも、それは龍樹菩薩が、「菩薩の死」と表現したほどに危ないことなのだ。
「菩薩」とは、「智慧と慈悲」の両面で出来ている存在で、「阿羅漢」は「慈悲」を捨て、「智慧」だけの存在だ。「慈悲」は、感情に翻弄される位相のことであり、単に「慈しむ」という愛情だけを言ってはいない。「菩薩」は、「凡夫」の生きる煩悩具足の大地を、同じように這いずり回る存在だ。ただ、「凡夫」は、煩悩により流される存在だが、「菩薩」は、あえて流れていく存在である。その違いはあっても、煩悩具足の大地に留まる。
だから、「いささか所労のこともあれば、死なんずるやらんとこころぼそくおぼゆる」と感じられなければ、凡夫の大地を失ってしまうのだ。まあ「菩薩」と言っても、「目覚めた凡夫」のことだ。「凡夫」が「凡夫」に目覚めた状態を、「菩薩」と呼ぶだけだ。
『歎異抄』第九条で、「いそぎまいりたきこころのなきもの」と呼ばれている者は、「生老病死」を「苦しみ」と感じる「凡夫」のことだ。この「いそぎまいりたきこころなきものを、ことにあわれみたまうなり。」と続く。つまり、「凡夫」のありのままの凡情のところにこそ、「ことにあわれ」む阿弥陀さんの悲愛が注がれる。阿弥陀さんの悲愛が裏打ちされるのであれば、「生老病死は当たり前の事象」と言いうる余裕が生まれる。この悲愛の裏打ちなくして、「生老病死は当たり前の事象」と表現してしまうと、それは冷たいニヒリズムになる。
「生老病死は当たり前の事象」だと自分で思い切ろうとしても、その「真理」だけが厳然と立派に成り立ち、自分はその前で一人、跪かなければならないのではないか。それはあまりに寂しいのではなかろうか。
『歎異抄』は、「他力の悲願は、かくのごときのわれらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり。」と言っている。阿弥陀さんの悲愛に裏打ちされたならば、どのような苦しみ、どのような悲しみが起こってこようとも、それが「たのもしくおぼゆるなり」へと転じられていくのだと。言葉を換えれば、どれほどの悲しみや苦しみが起こってこようとも、その思いを放擲する場所が用意されているということだ。
自分で思い切ろうとするのではなく、その思いをそのままに、おまかせできる場所、それが阿弥陀さんであり、それが〈存在の零度〉である。
変な言い方をしてみよう。「生老病死は当たり前の事象」という表現をこちらから向こうへ向かっていう言い方が池田の言い方なら、〈真・宗〉は、向こうからこちらへ向かって受け止める言葉となるだろう。池田の表現の方向は、いわば「虚無の虚空」だ。絶対に正しい真理を、「虚無の虚空」に向かって、こちらから叫んでいる。しかし、〈真・宗〉は、同じ言葉を、向こうから自己に投げかけられる言葉として受け取る。つまり、「聞き言葉」として受け取る。この違いがあるのではないか。
まだうまく言うことができないが、いまの段階では、そんなふうに言っておこう。