報仏寺の報恩講、その2

『歎異抄』第九条が自分にとっては一番身近な条だと書いた。だから、自分が『歎異抄』を編纂するのであれば、まず第九条を冒頭の第一条として持ってきただろう。
 現存する『歎異抄』は写本であって、原本は存在していない。ということは、『原本歎異鈔』は、どのような構成になっていたのかは分からないのだ。だから、現存の『歎異抄』第九条が、第一条であったかも知れないのだ。
 佐藤正英さんは、「異義編」と呼ばれている、十一条から十八条が「前編」として、そして、「師訓遍」と呼ばれている一条から第十条までが、「後編」に編まれていたのではないかと考えられている。つまり、現存の『歎異抄』とは逆の構成になっていたのではないかと言うのだ。それには、後序と呼ばれる部分に、「大切の証文ども、少々ぬきいでまいらせそうろうて、目やすにして、この書にそえまいらせてそうろうなり。」とあるからだ。この「大切の証文」が、「師訓遍」であり、それを「そえられまいらせ」だから、「後編」として編集されていたというのだ。これもなかなか説得力のある書誌学的見解だと思われる。
 「大切の証文」だから、やはり、私も「師訓遍」が、それに当たるのだろうとは思うが、構成までには関心がないので、それはどちらでもよいと思っている。
 私の説には何にも根拠がないので、私の妄想である。まあ常識的な感性で考えても、第九条を第一条に持ってくるような構成は非常識だと思われる。第九条の文体を第一条の文体と比べれば、かなり格調は低い。第一条が、「普遍性」を視野に入れた文体だと考えれば、第九条は、「特殊性」、つまり「個人的」なことを述べたものだから、文体の格調は、そう高くない。しかし、それが「個人的」なことを契機に語られるからこそ、「個人的」な問題が錐のように人間の深層にまで食い込んでくる。「個人的」なことだからこそ、それを読んだ人間の深層に渦巻いている「普遍性」にまで響いてくるのではなかろうか。
 もし、第九条が冒頭に書かれたとして、その『歎異抄』を手に取ったひとの第一印象はどんなものだろうか。それを想像しただけでもワクワクする。なぜ、こんな言葉が冒頭にあるの?と面食らうはずだ。この問いが、『歎異抄』へ深入するための契機なのだ。
 私は「問いの中に答えあり」とずっと言い続けている。その「問い」とは別に答えがあるわけではない。この「問い」の中に、「中に」とは、その「問い」は問うた当事者以外には、どこにも存在しないことであり、その「問い」によって育てられ、最後には、その当事者が、その「問い」自身となるからである。
 親鸞自身も、唯円の問いと同質の問いを持っていた。だから、「唯円房おなじこころにてありけり」と言ったのだ。この問いを『教行信証』の中で探せば、信巻の「かの無碍光如来の名号よく衆生の一切の無明を破す、よく衆生一切の志願を満てたまう。しかるに称名憶念あれども、無明なお存して所願を満てざるはいかん」だ。
 「阿弥陀さんの名前(南無阿弥陀仏)を称えることで、すべての迷いが破られ、すべての人々の願いが満足されると言っているのに、自分に於いては念仏を称えても、迷いはなくならず願いが満たされることがない、それはどうしてなのだろうか」という問いだ。
 この文章はもともと曇鸞大師の『浄土論註』の引用文だから、この問いを初めに発したのは、曇鸞大師だ。この曇鸞大師の問いを目にしたとき、親鸞はどう思っただろうか。それを聞くこともできなので、ここからは私の想像だ。おそらく、親鸞は私と同じ疑問を、なんと五百年も前に曇鸞大師が持たれていたのかと、感動したのではなかろうか。
 そして、いままた目の前の唯円が、同じ疑問を持った。親鸞は、「そうかお前もか。曇鸞大師が懐かれた、この問いと同じ問いに出会ったのか」と喜ばれたに違いない。だから、「唯円房おなじこころにてありけり」と述べた親鸞の胸の内には、熱い感動が走っていたに違いないのだ。この問いに恵まれなければ、信仰の関門を開くことができないからだ。さらにこの問いは、曇鸞・親鸞・唯円に止まることなく、〈真・宗〉を前にしたひとは、誰に於いても関門となる問いなのである。
 それでは親鸞は、この問いをどのように解決していったのだろうか。その答えは『教行信証』のあちこちに散見されるが、特徴的なのは、「化身土巻」の「三願転入」の前文でろう。そこには、「おおよそ大小聖人・一切善人、本願の嘉号をもって己が善根とするがゆえに、信を生ずることあたわず、仏智を了らず。」と記されている。なぜ信心が定まらないのかと言えば、それは「本願の嘉号をもって己が善根とする」からだと言う。つまり、自分が南無阿弥陀仏と発語することによって、自我をより強固に補強しようとするからなのだ。「信巻」の「信楽釈」では、「一切凡小、一切時の中に、貪愛の心常によく善心を汚し、瞋憎の心常によく法財を焼く。急作急須して頭燃を灸うがごとくすれども、すべて『雑毒・雑修の善」と名づく。」と厳しく記されている。
 「我々は意識していなくても、つねに自己愛と貪りのこころで満たされているので、どれほど善い心を起こそうとも偽善になり、つねに怒りと恨みのこころを保持しているので、仏法をまやかしだと蔑む。だから、それを打ち消そうと、頭に付いた火を払うように死に物狂いになって努力したとしても、それは偽りの行為であり、偽りの善行となってしまう。」と訳すことができようか。
 一言で言えば、「真実の信心」は私のこころの中には成り立たないという目覚めだ。それで、「真実の信心」は如来から「回施」されるものだと記す。(『真宗聖典』には「回施」が六回出てくる)つまり自己の外部から回り施されるものという譬喩で語る。これは「光」の譬喩でも多用される。「光」とは光源から発せられるものであって透明なものだ。ただ、その「光」に対象物がぶつかって反射されるとき「光」が可視化される。太陽のひかりも、透明なものだ。それが私の眼の網膜にぶつかって眩しい「光」となる。太陽の「光」を反射している「月」が、満月として我々の目に映る。それは月自身が光っているわけではない。あくまでも太陽のひかりの反射だ。これが「真実の信心」と阿弥陀さんとの関係をうまく表現した譬喩だ。
 『歎異抄』の後序には、「如来よりたまわりたる信心」という言葉も出ている。これも譬喩である。「たまわる」というのは、品物をもらうというイメージに引きずられるので、あまりよい譬喩とは言えない。もらったものは、自分のものになる。つまり、自我を強固に補強するための道具になってしまうからだ。
 思えば、第九条の冒頭、「念仏もうしそうらえども、踊躍歓喜のこころおろそかにそうろうこと、またいそぎ浄土へまいりたきこころのそうらわぬは、いかにとそうろうべきことにてそうろうやらん」と、唯円に感じさせ、そう問わせたものは何だったのだろう。煎じ詰めれば、なぜ「真実の信心」が自分に成り立たないのだろうと、唯円を不安にさせたものは何だろうか。それこそが阿弥陀さんの揺さぶりではないのか。
 ビギナーズラックで、かつて一度は喜んだはずなのに、それが継続しないのは、継続しないように、阿弥陀さんがはたらいているからなのだ。だから、継続しないことが、親鸞に於いては「たのもしくおぼゆるなり」と安心感につながっている。不安を引き起こしているのが阿弥陀さんであり、この阿弥陀さんを感じているから「たのもしく」という安定感が与えられる。不安は忌避すべきものだが、その不安に、「自己」は一切関与していない。すべては阿弥陀さんのはたらきなのだと、完全に断絶されている。
 つまり、そこには始発点としての「自己」が解体されているのだ。「自己」の心がけ次第では、何事かをなしえるだろうという「自我心」が解体されている。近代の「自由意志」という観念も解体されている。「ああすれば、こうなるはずだ」という観念は自我心、つまりは「自力のこころ」の好むところだが、それが通じるのは「観念」の中でのことだ。「事実」は、それとは違う次元で動いている。「自己」の、この世への誕生ということ一つを取ってみても、「ああすれば、こうなるはず」という意志はどこにも関与していない。「自己」に取って、「誕生」とは偶然以外の何ものでもない。偶然とは、「たまたまの縁」ということだが、そうやって自分の身の回りを見渡してみれば、「たまたまの縁」以外では成り立っていないことに、愕然としないだろうか。むしろ、「たまたまの縁」だけで世界が成り立っている。「意志」がなり立つ世界は「観念」の中だけだ。算数で1+1=2と習うが、これは「観念」の世界では正しい。しかし、現実には一つのリンゴと一つのミカンを「+」ことはできない。
 「親鸞は」、と書こうとして思いとどまった。「親鸞は」ではなく、〈真・宗〉は、だ。〈真・宗〉は、意識や感情が深層から沸き起こってきて、それを表層の「自己」が受け止めると考える。それらは「自己」の関与を超えている事柄として受け止める。つまり、「自己」を始発点にしては考えない。
 『歎異抄』第十三条の、親鸞の言葉で言えば、「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」である。思いや感情は「さるべき業縁」から始発されるので、「自己」は、それを受け取ることしかできない。「さるべき業縁」とは、思いや感情が始発される深淵であり、深層である。
 それを譬喩的に、「阿弥陀さんの揺さぶり」などと表現してみた。「ああすれば、こうなるはず」という「自力のこころ」にとって、この揺さぶりは厄介極まりない。しかし、揺さぶることをやめない。なぜならば、「自己」をして〈真実〉に目覚めさせようとするからだ。
 しかし、〈真実〉という言葉を使っていると、あたかも私が〈真実〉を知っているかのように錯覚されてしまう。そうではないのだ。〈真実〉は、人間にとって永遠に解明することのできない何事かであり、またそれなしには生きられない何事かなのである。それを仮に〈真実〉という言葉をメタファーとして使っているだけなのだ。
 ただそれが「いつでも、どこでも、誰にでも」を条件として成り立つ何事かなのだと、曇鸞大師は述べている。それが、「淳心・一心・相続心」というチェックリストだ。信心が純粋であれば、「淳心」が満たされる。また信心が「このことひとつ」と定まれば「一心」が満たされる。さらに信心がつねに充実していれば、「相続心」が満たされる。もしそのうち一つでも満たされなければ、それは「〈真実〉の信心」ではないというのだ。
 原文の方が説得力があるので引いておこう。
「また三種の不相応あり。一つには信心淳からず、存せるがごとし、亡ぜるがごときのゆえに。二つには信心一ならず、決定なきがゆえに。三つには信心相続せず、余念間つるがゆえに。」(『教行信証』信巻)
 お前には「〈真実〉の信心」があるのか、と問われれば、あるようなないような気がする(不淳心)。また信心がこのこと一つとキチッと決まらずに揺らいでしまう(不一心)。また、あれこれと心が散ってしまい、信心が続かない(不相続心)。これを「三不信」と呼び、信心が〈真実〉か否をチェックする条件となる。まあ他者がチェックするのではなく、個人の内面で、チェックするものなくしてチェックされるのだ。だから、こんな微細なこころの動きは、個人の内面でしか分からないことなのだ。
 唯円にとっては、「信心の喜び」が、「いつでも」から逸脱していた。かつては喜べたが、いま現在は喜べないということは、「いつでも」という条件を満たしていない。だから、それは「〈真実〉の信心」ではないとみずから覚ったのだ。
 そのようにみずからの内面を覗いて見れば、一つとして「信心」が成り立たないことが分かると同時に、「信心」を阿弥陀さんに返上したのだ。つまり、「信心」を固めて、「いつでも、どこでも」に留めようとするこころを手放したのだ。言えば、「信ずる必要がなくなった」のだ。
 この第九条を書いてからの唯円は、どのような思いや感情が湧いてきても、それをそのままに手放しておられたのではなかろうか。「信心」もそうだが、我々の思いや感情は、固定されるものではないから、時間が経てば移ろっていく。そもそも、「自己」というものも、「思い」でしかないのだ。「自己とは何か」と問うてみても、それに満足する答えは与えられない。「自己」という意識は、必ず「見る自己」と「見られる自己」に分裂する。そして、自分がつねに問題として取り上げられるのは、「見られる自己」だけである。「見る自己」はいつでも透明であり、問われることがない。だから、自分にとって、〈ほんとう〉の自分とはブラックボックスのようなものなのだ。自分に見えているのは、いつも「自己」の影に過ぎないのだ。
 それで、報仏寺のお話の中で、私は、「皆さんは、〈ほんとう〉は阿弥陀さんなのです」と話した。皆さん、それを真に受けて聞いていたかどうかは分からなかった。私も、誤解されただろうなと思いながらも、そう口走ってしまった。
 阿弥陀とは、「阿=a=無・弥陀=meter=量」であり、私の翻訳だと、「量ることを無と否定するはたらき」となる。「人間の思量(思い)では決して分から無いもの」であり、「人間の思量を無と否定するはたらき」である。そうなると、私自身とは阿弥陀なのではないか。自分で自分のことが分からない存在なのだから。また逆に、自分のことは自分が一番よく分かっているという思いを、完全に否定するはたらきが阿弥陀なのだから。
 昨日、報仏寺の報恩講について語ったことで、まだ語り残したものを吐き出しておきたかったのである。